和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あとによろこびが残る。

2024-12-08 | 書評欄拝見
庄野潤三著「明夫と良二」を読んだら、その後に、
何というか、著者の他の本を読む気がしなくなる。
それは何かこの一冊で充実した満足感に包まれる。

まあ。このようにいつも本を中途半端に読む私がいる訳です。
けれども、この味わいは何なのかというのは、知りたくなる。
この満足感というのは、いったいどこから来るのだろうかと。

文庫だけを並べた本棚が家にあり、つい買ったはいいものの、
ついぞ、読み通したことのない文庫がそこにあるので滅入る。

たしか、と思って調べてみると、ありました。
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文庫・昭和46年初版で昭和54年10刷)。
はい。読もうとして買ったはいいものの、そのまま本棚に眠ってました。
この文庫のカバー装画・畦地梅太郎で、面白い絵です。
この文庫の解説は「庄野潤三の文学」と題して小沼丹。

はい。次に読むのはこの文庫にしようと思いながら、
解説を読み始める。そのはじまりは

「 庄野の随筆集『 クロッカスの花 』のなかに、
  『 アケビ取り 』と云う文章があって、
  男の子の友だちの松沢君と云う子供が出て来る。

 『 色が白くて、まんまるで、静かで、いつも悠々としている 』。
  デブチンダヌキと云う仇名(あだな)があるが、
  生れつきおっとりした旦那の風格を具えていて、
  学校の帰りにズックの鞄をかけたまま、坂道の上に立って
 『 何ということなく、あたりの景色を眺めている 』のだそうである。

  これを読んだら、いかにもそんな子供がいる
  と云う実感があって面白かった。・・・・      」(p269)

はい、小沼氏の文は、こうしてはじまっておりました。
そのすこし後に、庄野氏の言葉を引用しておりますので、
そちらも引用しておきます。

『 私はおかしみのあるものが好きで、
  いつもそういうものに出会わないだろうかと待ち受けている。
  道を歩いている時でも、電車に乗っているときでも、
  そんな気持ちでいる。それで何かあると、満足する。

  それは、どういう風におかしいのか、いってみろといわれると、
  おそらくひとことも返事が出来ないような性質のものである。

  何でもないといえば、何でもない。
  そんなことが、どうしておかしいといわれても
  仕方のないような、ごく些細なことである。

  しかし、私はそういうものに出会うと、
  自分の心がいきいきするのを覚える。
  あとによろこびが残る。       』 (p270)


はい。この解説に背中をおされるようにして、
つぎは庄野潤三「夕べの雲」を読んでみます。

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