庄野潤三著「明夫と良二」を読んだら、その後に、
何というか、著者の他の本を読む気がしなくなる。
それは何かこの一冊で充実した満足感に包まれる。
まあ。このようにいつも本を中途半端に読む私がいる訳です。
けれども、この味わいは何なのかというのは、知りたくなる。
この満足感というのは、いったいどこから来るのだろうかと。
文庫だけを並べた本棚が家にあり、つい買ったはいいものの、
ついぞ、読み通したことのない文庫がそこにあるので滅入る。
たしか、と思って調べてみると、ありました。
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文庫・昭和46年初版で昭和54年10刷)。
はい。読もうとして買ったはいいものの、そのまま本棚に眠ってました。
この文庫のカバー装画・畦地梅太郎で、面白い絵です。
この文庫の解説は「庄野潤三の文学」と題して小沼丹。
はい。次に読むのはこの文庫にしようと思いながら、
解説を読み始める。そのはじまりは
「 庄野の随筆集『 クロッカスの花 』のなかに、
『 アケビ取り 』と云う文章があって、
男の子の友だちの松沢君と云う子供が出て来る。
『 色が白くて、まんまるで、静かで、いつも悠々としている 』。
デブチンダヌキと云う仇名(あだな)があるが、
生れつきおっとりした旦那の風格を具えていて、
学校の帰りにズックの鞄をかけたまま、坂道の上に立って
『 何ということなく、あたりの景色を眺めている 』のだそうである。
これを読んだら、いかにもそんな子供がいる
と云う実感があって面白かった。・・・・ 」(p269)
はい、小沼氏の文は、こうしてはじまっておりました。
そのすこし後に、庄野氏の言葉を引用しておりますので、
そちらも引用しておきます。
『 私はおかしみのあるものが好きで、
いつもそういうものに出会わないだろうかと待ち受けている。
道を歩いている時でも、電車に乗っているときでも、
そんな気持ちでいる。それで何かあると、満足する。
それは、どういう風におかしいのか、いってみろといわれると、
おそらくひとことも返事が出来ないような性質のものである。
何でもないといえば、何でもない。
そんなことが、どうしておかしいといわれても
仕方のないような、ごく些細なことである。
しかし、私はそういうものに出会うと、
自分の心がいきいきするのを覚える。
あとによろこびが残る。 』 (p270)
はい。この解説に背中をおされるようにして、
つぎは庄野潤三「夕べの雲」を読んでみます。
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