うん。坐禅をしたことはないけれど、
こう暑いと、寝苦しくいっそ坐禅でも。ということを、
何となくも思い浮かべている自分がいます。
さてっと、細川寛山氏に
「『普勧坐禅儀』について」という2頁の文が、
「曹洞宗檀信徒勤行経典」の最後にありました。
はい。私の家の宗派は、日蓮宗で、曹洞宗とは
あまり接点がないのですが、気になって、
古本で「曹洞宗檀信徒勤行経典」を購入。
家とは別に、私は法事とかもやらないかもしれない、
そんな横着者です。
という横着な私が、坐禅に興味を示す。
もどって、「普勧坐禅儀」についてでした。
「本書は道元禅師が中国に渡り天童如浄禅師について
坐禅修行、ついに仏祖正伝の坐禅を究めて帰国した
安貞元年(1227)、28歳のとき撰述したものである。」
と細川寛山氏は、書きはじめておられます。
「本書の内容は、仏道とか仏性というものは
もともと円満無欠で天地に充満しており、
いきいきとして自在に働いている。
修行するしない、悟りを得る得ない、
そのいかんによって生じたり滅したりはしない。
ところがこの本来清浄なものが、
人間の善悪、好嫌の思いによってけがされてしまうのだ。
悟ったと思いこむのもこのけがれの一種で、
本来の自由自在の道にかえれないのである。
坐禅に手段や思いを持ち込んではならない。
・・・・
この仏祖により正しく伝えられた坐禅が身につけば、
竜が水を得、虎が山に放たれたように、
自由自在の生命を得るだろうと、
坐禅の本旨や坐禅の心構えを懇切に説示し、
坐禅の仕方もくわしく説かれている。
756文字という短文であるが音韻美しい46文であり、
修行道場では坐禅(夜坐)のあと微音で
ゆるやかに誦し、その主旨に参ずるならわしになっている。」
はい。この最後の3行が気になります。
といっても、原文は私にチンプンカンプン。
そこで、講談社学術文庫の
大谷哲夫全訳注「道元『小参・法語・普勧坐禅儀』」の
現代語訳をひらいてみる。その現代語訳の最後を引用。
「人の気根は千差万別ではあるが、
ただひたすらに坐禅弁道をすべきである。」
「仮に一歩を間違えば、たちまちに大事な瞬間を
見失ってしまうことはいくらでもある。
幸いにして、我々はすでに受けがたい人間としての
命を受けてこの世に存在しているのであるから、
虚しく時間を過ごしてはならない。・・・
人間の身体は露のようにはかなく、
人間の一生は一瞬の稲妻のようなものであり、
たちまちのうちに空しくなり、ほんのわずかな
時間でも失われるのであるから。
願わくば、
仏法を真剣に学びたいという高い志をもつ人々よ、
彫刻された偽物の龍に慣れ親しんで、
本物の龍が目の前に現れたときに、疑いの目を向けるように、
仏教は言葉で理解するものと思い込んで、
仏道の究極を具体的にあらわしている坐禅を疑うことが
あってはならない。
坐禅そのものが仏道そのものであることを自覚し、
精進し、仏法を学び尽くしたところにとらわれない
真実の人を尊び、過去の祖師方が証明してきた
さとりを我がものとし、正伝の坐禅を正しく
受け継ぐ人にならなければならない。
久しく、言葉では表現しえない坐禅を行ずれば、
自分自身が非言語の世界そのものとなり、
仏法の宝の蔵がひとりでに開き、
その宝物を使うこと思いのままとなるであろう。」
はい。これからですが、今年の夏は「普勧坐禅儀」の原文を
「微音でゆるやかに誦し」てみることにします。
できたら、自己流の坐禅でもって(笑)。
こう暑いと、寝苦しくいっそ坐禅でも。ということを、
何となくも思い浮かべている自分がいます。
さてっと、細川寛山氏に
「『普勧坐禅儀』について」という2頁の文が、
「曹洞宗檀信徒勤行経典」の最後にありました。
はい。私の家の宗派は、日蓮宗で、曹洞宗とは
あまり接点がないのですが、気になって、
古本で「曹洞宗檀信徒勤行経典」を購入。
家とは別に、私は法事とかもやらないかもしれない、
そんな横着者です。
という横着な私が、坐禅に興味を示す。
もどって、「普勧坐禅儀」についてでした。
「本書は道元禅師が中国に渡り天童如浄禅師について
坐禅修行、ついに仏祖正伝の坐禅を究めて帰国した
安貞元年(1227)、28歳のとき撰述したものである。」
と細川寛山氏は、書きはじめておられます。
「本書の内容は、仏道とか仏性というものは
もともと円満無欠で天地に充満しており、
いきいきとして自在に働いている。
修行するしない、悟りを得る得ない、
そのいかんによって生じたり滅したりはしない。
ところがこの本来清浄なものが、
人間の善悪、好嫌の思いによってけがされてしまうのだ。
悟ったと思いこむのもこのけがれの一種で、
本来の自由自在の道にかえれないのである。
坐禅に手段や思いを持ち込んではならない。
・・・・
この仏祖により正しく伝えられた坐禅が身につけば、
竜が水を得、虎が山に放たれたように、
自由自在の生命を得るだろうと、
坐禅の本旨や坐禅の心構えを懇切に説示し、
坐禅の仕方もくわしく説かれている。
756文字という短文であるが音韻美しい46文であり、
修行道場では坐禅(夜坐)のあと微音で
ゆるやかに誦し、その主旨に参ずるならわしになっている。」
はい。この最後の3行が気になります。
といっても、原文は私にチンプンカンプン。
そこで、講談社学術文庫の
大谷哲夫全訳注「道元『小参・法語・普勧坐禅儀』」の
現代語訳をひらいてみる。その現代語訳の最後を引用。
「人の気根は千差万別ではあるが、
ただひたすらに坐禅弁道をすべきである。」
「仮に一歩を間違えば、たちまちに大事な瞬間を
見失ってしまうことはいくらでもある。
幸いにして、我々はすでに受けがたい人間としての
命を受けてこの世に存在しているのであるから、
虚しく時間を過ごしてはならない。・・・
人間の身体は露のようにはかなく、
人間の一生は一瞬の稲妻のようなものであり、
たちまちのうちに空しくなり、ほんのわずかな
時間でも失われるのであるから。
願わくば、
仏法を真剣に学びたいという高い志をもつ人々よ、
彫刻された偽物の龍に慣れ親しんで、
本物の龍が目の前に現れたときに、疑いの目を向けるように、
仏教は言葉で理解するものと思い込んで、
仏道の究極を具体的にあらわしている坐禅を疑うことが
あってはならない。
坐禅そのものが仏道そのものであることを自覚し、
精進し、仏法を学び尽くしたところにとらわれない
真実の人を尊び、過去の祖師方が証明してきた
さとりを我がものとし、正伝の坐禅を正しく
受け継ぐ人にならなければならない。
久しく、言葉では表現しえない坐禅を行ずれば、
自分自身が非言語の世界そのものとなり、
仏法の宝の蔵がひとりでに開き、
その宝物を使うこと思いのままとなるであろう。」
はい。これからですが、今年の夏は「普勧坐禅儀」の原文を
「微音でゆるやかに誦し」てみることにします。
できたら、自己流の坐禅でもって(笑)。
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