もう一ヶ月も前の読売新聞10月26日に、茂木健一郎氏が文を載せておりました。
なんでも10月27日は「文字・活字文化の日」なのだそうで、その特集のようでした。
そこに「現代人は、都会の中で本に触れた時の質感に太古の森を思っているのかもしれない。本を持ち、目をつぶれば小鳥のさえずりさえ聞こえてくる」とありました。茂木さんは1962年東京生まれ。
そういえば、本の山が思い浮かびます。
坪内祐三氏は1958年東京生まれ。その坪内さんの本「考える人」(新潮社)にこんな箇所がありました。
「ここ数日、私は、一冊の文庫本をずっと探しているのですが、見つかりません。
それは、森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)です。
1976年に出たこの文庫本を、私は、その翌々年、大学に入学した年の春に入手し、熱心に読みました。本当に熱心に読みました。
半年ぐらい前、文庫本の山の一つ(私の家には幾つもの文庫本の山があるのですが)からこの本がひょうっこりと見つかりました。
そうだ、森有正もまた、『考える人』にふさわしい人物だと思い、いつか彼が登場する時のために、取り置きしていたはずなのですが、半年の間に、またどこかに消えてしまいました(時間というものはそうやって経過して行くものです)。いくら探しても見つかりません。近くの世田谷中央図書館に借りに出かけたら、貸出中でした。・・・・」(p109)
最近、検索をしていたら偶然に山野博史氏の新刊が出ているのに気づきました。
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)。
表紙画が楽しい。いしいひさいち氏が描いております。
図書館でしょうか。高い本棚のハシゴが倒れている。高い本棚の棚板に手と足をひっかけて山野氏らしいメガネのおじさんが下をむいて口をあけているのです。静かな図書館にいる人といえば、椅子を並べて寝ているのや、机にひじをついて寝ている、机に突っ伏して寝ている。高い本棚にひとりつかまっている山野さんとおぼしき人が下を見て額から冷汗が・・。というような絵柄です。そういえば、山野博史著「本は異なもの味なもの」(潮出版)に、雑誌『新女苑』に載った柳田国男の「私の勉強部屋」と題するグラビア・ページを説明している文がありました。なんでも、それは「『定本柳田國男集』に未収録であるばかりか、その別巻第五の『書誌』にも記載もれの逸文なのである」と山野さんは指摘しております。
それは昭和16年の雑誌で、書斎の柳田をとった写真に小文が添えられているのだそうです。その文のはじまりはというと
「本をそちこちの戸棚押入に分散させて置いて、夜中に懐中電燈を持って捜しあるく苦しみを私は二十数年の間味はつた。その一大反動として人が笑ふやうな広い書斎を作り、本を壁紙の代りにして窓以外には何の飾りもせず・・・・」
苦しみというからには、本が探し出せなかったこともあったのでしょうね。
探しているだけで夜が明けるということもあったのでしょうか。
読むよりも、本を探している時間の長さ。何度もあきらめたかもしれませんね。
本の森に踏み迷って途方にくれている姿を想像してみるのでした。
これは、たぶん傍から見たら可笑しくみえるのでしょうね。
そうそう、まるで高い本棚の棚板につかまって、
ひとり降りられなくなっているような。そんな滑稽さ。
下を見れば、視界には本を枕に居眠りしてる人
(また、この居眠りしてる人の顔が、私によく似てるんだなこれが)。
なんでも10月27日は「文字・活字文化の日」なのだそうで、その特集のようでした。
そこに「現代人は、都会の中で本に触れた時の質感に太古の森を思っているのかもしれない。本を持ち、目をつぶれば小鳥のさえずりさえ聞こえてくる」とありました。茂木さんは1962年東京生まれ。
そういえば、本の山が思い浮かびます。
坪内祐三氏は1958年東京生まれ。その坪内さんの本「考える人」(新潮社)にこんな箇所がありました。
「ここ数日、私は、一冊の文庫本をずっと探しているのですが、見つかりません。
それは、森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)です。
1976年に出たこの文庫本を、私は、その翌々年、大学に入学した年の春に入手し、熱心に読みました。本当に熱心に読みました。
半年ぐらい前、文庫本の山の一つ(私の家には幾つもの文庫本の山があるのですが)からこの本がひょうっこりと見つかりました。
そうだ、森有正もまた、『考える人』にふさわしい人物だと思い、いつか彼が登場する時のために、取り置きしていたはずなのですが、半年の間に、またどこかに消えてしまいました(時間というものはそうやって経過して行くものです)。いくら探しても見つかりません。近くの世田谷中央図書館に借りに出かけたら、貸出中でした。・・・・」(p109)
最近、検索をしていたら偶然に山野博史氏の新刊が出ているのに気づきました。
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)。
表紙画が楽しい。いしいひさいち氏が描いております。
図書館でしょうか。高い本棚のハシゴが倒れている。高い本棚の棚板に手と足をひっかけて山野氏らしいメガネのおじさんが下をむいて口をあけているのです。静かな図書館にいる人といえば、椅子を並べて寝ているのや、机にひじをついて寝ている、机に突っ伏して寝ている。高い本棚にひとりつかまっている山野さんとおぼしき人が下を見て額から冷汗が・・。というような絵柄です。そういえば、山野博史著「本は異なもの味なもの」(潮出版)に、雑誌『新女苑』に載った柳田国男の「私の勉強部屋」と題するグラビア・ページを説明している文がありました。なんでも、それは「『定本柳田國男集』に未収録であるばかりか、その別巻第五の『書誌』にも記載もれの逸文なのである」と山野さんは指摘しております。
それは昭和16年の雑誌で、書斎の柳田をとった写真に小文が添えられているのだそうです。その文のはじまりはというと
「本をそちこちの戸棚押入に分散させて置いて、夜中に懐中電燈を持って捜しあるく苦しみを私は二十数年の間味はつた。その一大反動として人が笑ふやうな広い書斎を作り、本を壁紙の代りにして窓以外には何の飾りもせず・・・・」
苦しみというからには、本が探し出せなかったこともあったのでしょうね。
探しているだけで夜が明けるということもあったのでしょうか。
読むよりも、本を探している時間の長さ。何度もあきらめたかもしれませんね。
本の森に踏み迷って途方にくれている姿を想像してみるのでした。
これは、たぶん傍から見たら可笑しくみえるのでしょうね。
そうそう、まるで高い本棚の棚板につかまって、
ひとり降りられなくなっているような。そんな滑稽さ。
下を見れば、視界には本を枕に居眠りしてる人
(また、この居眠りしてる人の顔が、私によく似てるんだなこれが)。
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