ちくま新書に「教えることの復権」があった。
大村はま・苅谷剛彦・夏子の3人でつくった一冊。
万事あきっぽい私ですから、序章と第一章をめくってみる。
序章は、まず苅谷夏子さんが書いておりました。
「大村単元学習・・授業は、それを知らない人に
全体像を説明しようとしても、なかなかむずかしい。
大村教室を巣立った生徒は、その後の人生で、
自分の受けた国語教育がどう新しかったかを
人に伝えようと試みたことが、多かれ少なかれ
きっとあるだろう。
・・・どれだけ一生懸命言ってみても、
肝心なことが伝わった気はしない。もどかしい気持ちを味わう・・
多くの著書がある・・・でもそれらがあってもまだ、
私などはあの教室が十分に紹介されたとは思えないのだ。 」(p26)
このあとに、大村さんと夏子さんの対談が続いておりました。
ちなみに、夏子さんは1956年生まれ。では対談から引用。
夏子】 たとえば思い出すのは教室の文房具のことです。
私が小学生だった昭和30年代というのは高度経済成長が
始まったばかりくらいです。貧乏くさい話ですが、その頃、
学校で工作をするからリボンと箱を持ってきなさいなんて
いうと、家にそんなに素敵なものなんかなかった。
日常買うものはもっと粗末なものに入っていて、
きれいなせっけんの箱なんてそれは大事に思って
いたものです。まだそんな時代でした。
ところが読書生活の記録をまとめたり
学習記録をまとめたりするのに、先生が
大きな箱いっぱいに色とりどりのリボンを
買っておいてくださって、それで好きなのを
選ばせてくれたんですよね。
大村】 そうよ、そうだった。
夏子】・・・それはきれいだった。
『自分の学習記録をこんな色のリボンで留めたいって、
そういうのがあるでしょう』っておっしゃっていた。
このエピソードは、ちょっと聞くとただの甘ったるい
少女趣味のように聞こえるのだけれど、先生の場合は、
ほんの一ミリでも成果が上がるんだったら、その努力
をしましょうというのが伝わってきたんですよね。
多分そういう迫力が子どもに伝わって・・・・
あの教室の緊張感というのは、数え切れないほど
たくさんの小さなものからできていたんだなと思います。
勉強のためにはなにものをも惜しまないという精神は、
何かにつけて表れていて、たとえば一枚のカードに
一項目書いたらもうほかのことを書くんじゃない
というようなことを習って、それは驚いたものでした。
それがあとの作業をほんとに左右するからと。
でも隙間がうんとあいていたら、
もったいないと思うじゃありませんか。
そうしたら、勉強のためのこういうことを、
もったいながるんじゃありませんておっしゃった。
大村】 カードというのは一枚に一つ書くから意味があるんです、
なんて言ったわね。いっぱい書いたらノートになってしまうんだから。
ほんとに、骨身もお金も時間も惜しまなかったわね。
夏子】 そういうものをけちけちしないで使えるのはうれしかった。
一見他愛もない、ちょっと遊びの気分まで混じったようなかたちでも、
この教室ではことばの力をつけることがいちばん大事なこと、
というメッセージが伝えられた。お説教ではとてもありえない
ような、明るい雰囲気の中で伝えられていたんですね。
( ~p36 )
そういえば、京大カードが有名となる、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は
第一刷が1969年7月21日となっておりました。
この頃は、ちょうど苅谷夏子さんが13歳くらい、
中学校に入ったばかりの頃なんだなあ、なんて思い浮べます。
はい。その当時、読むのと、実践するのとではおおちがい。
うん。最後に、ここも引用しておくことに( p28 )。
大村】 ・・・・日本中にどこにでもあるというような、
あたりまえの学校に奉職したいと思っていたんですよ。
これから自分が一生懸命取り組んでいくことの成果、
それはあたりまえの学校でやってこそ、
たくさんの人についてきてもらえるのだ、と思った。
・・・・あたりまえの学校で仕事をして、
それがほんとうに役に立たなきゃいけない。
戦後、大変な決意をして中学に出たからには、
それだけのことをやりたいと思ったんですよ。・・
コメントありがとうございます。
「大村はま」の読書。
すぐ放り投げちゃう私ですが。
忘れてた言葉、日々新たなり。
今日新しく「大村はま」読書。
ということで本をひらきます。