昨日は、主のいない家の裏の枝切り、及びドブ掃除。
それを午前中で終らせ、午後はマイナンバーカード更新で支所へ。
せっかく出たので、風が吹くなか、神社2社へとお参りに。
滝の口下立松原神社は、石段で、途中足がひっかかりつまずく。
普段運動をしてない私には、石段は心臓バクバクもので要注意。
かさねて、健康を祈願する。来年こそ、順調に上れますように。
つぎに、安房神社へ。そして5時頃に回転寿司で
早めの食事をすませて、家へ帰りお風呂を沸かす。
考えてみれば、ドブ掃除をし着替えただけでした。
廃刊になった『 諸君! 』について、気になるので
とりあえず、ある本を並べてみる。
白川浩司著「オンリー・イエスタデイ 『諸君!』追想」(小学館・2011年)
最終号『 諸君!』(文藝春秋2009年6月号)
「 諸君!の30年」(文藝春秋・1999年)
「司馬遼太郎が語る雑誌言論100年」(中央公論社・1998年)
4冊目の帯にはこうありました。
「 ジャーナリズムがカチッとしていなければ
芯のない世の中になってしまう 」 司馬遼太郎
たいてい、帯の言葉は、本文のどこかからの引用だと踏んで
その箇所をひらくと、ありました。
今回はそこを引用してみます。
粕谷】 ・・・マスコミという言葉はあっても、ジャーナリズムという
言葉はあまり出てこない。言論というものは何なんだろうかと
考える必要がありますね。マスコミとは違う、情報とは違う
言論というのは何なんだろうかということを考える。
そういう影響力を持つジャーナリズムといいますか、
そういうことをいま考えることが、僕はやはり大事なこと
じゃないかという気がしているのですが。
司馬】 そうですね。それだけが、つまり極端にいうと、
将来への希望のロープになりますね。
私よりずっと年上の人で、20年ほど前によくつきあっていた、
岡本博さんという毎日新聞の記者がいました。
40代のころは映画評論をやっていたと思いますが、すぐれた人です。
ちょっと独特の語彙を持っている人でもありました。
この人は何か重要なことを聞いたときに、よく言っていました。
『 ああ、それはジャーナリスティックですね 』
ジャーナリスティックという言葉は、アカデミックの反対の、
いやな言葉として、戦前、学者の世界でよく使われた低い言葉でした。
ところが彼は、非常に高い言葉として言っていましたね。
だんだん聞き慣れてくると、こう考えるようになりました。
・・・・・・・・・・・・
ジャーナリズムには、そこだけは空虚であり、エンプティ―な面が
必要だということでしょう。いろいろな価値があって、
エンプティ―のところを一つつくっておけば、
非常に精選されたものが出てくる。その成果によって 間違いなく
世の中が進むという意味で、彼は使っているのだろうと。
僕はそう解釈して、非常に感動的に思ったことがあります。
非常にいい感じの言葉でした。マスコミという言葉とは違うんですね。
マスコミという言葉は、もともといろいろな関係を持ち合うことです。
しかもだんだんパターン化していって、ファッションになっていく
だけのものであり、ジャーナリズムという言葉とは違う。
ジャーナリズムというものがカチッとしていなければ、
芯のない世の中になってしまいますね。・・・・・
芯のない世の中になったらどうなりますか。・・
言論がもう一度見直されていい時期ですね。 」
( p87~88 「司馬遼太郎が語る雑誌言論100年」 )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます