和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

若冲と相国寺。

2020-07-09 | 京都
「古寺巡礼京都」②は、相国寺(淡交社・昭和51年)。
足立巻一氏の文が掲載されておりました。
題して「若冲と大典 相国寺で」。

「早春から初夏にかけて、相国寺の三度の法要に
列席する機会があった。・・・」とはじまります。

芸術家の若冲をとりあげ、興味をそそられました。

「以前、足利義政のことを調べる必要があって相国寺の
墓地をたずねてみると、義政の小ぶりな宝篋印塔は
すぐわかったが、そのすぐ左には藤原定家の五輪塔、
右には若冲のまぎれもない墓がならんでおり、この
奇異な取り合わせにはいささか面喰ったことがある。

あとで聞けば、これら三つの墓は、それぞれ別々の子院の
墓地にあったのが、戦後墓を整理して一か所にまとめたとき、
著名なために三基がならべられたらしい。
若冲の墓は・・・俗臭のない、いい文字である。
裏面にはかなり長文の碑銘が刻まれている。
相国寺第百十三世住職の碩学大典禅師の撰と書である。」

この大典禅師と若冲の関係が、このあとに
語られてゆくのでした。
まあ、私はパラパラとひらいて引用するばかり(笑)。

「若冲がそのころ稀有の、強固きわまる個性の持ち主であった
ことは、その作品を一見すればだれしも疑いのないことである。
・・・・・若冲は狂気と思えるほど自己に忠実であったとともに、
嬰児のような明るさがその面貌にはひろがっていたような気がする。」
(p72)

ここからが、相国寺と若冲との関係深さを味わえるのですが、
ここには、最後の方だけを引用しておわります。

「若冲が寄進した釈迦・普賢・文殊画像と『綵絵』は、
明和六年(1769)相国寺閣懺法に際して方丈で飾られた
という記録がある。稀代の壮観であったにちがいない。
その花も草も軍鶏も小鳥も魚介も、華麗であるだけでなく、
すべて生きているものの表情をあらわしている。・・・
それが三尊画像を中心にいっせいにならべられたとき、
この世に生きるものすべての法悦境とも見えたであろう。

しかしいま、その『綵絵』はすべて相国寺には無い。
明治22年宮中へ献納され、御物となったのである。
それには金一万円が相国寺に下賜された。
献納、下賜といえば体裁はいいが、売ったのである。
相国寺の寺勢は大典の示滅後から下降しはじめ、
それが明治維新以後は極度の財政難となった。
それを当時では莫大な一万円によって切り抜け、
いまの寺地もほぼその金で確保されたという。
若冲は没後、相国寺の危機を救ったということになる。
・・・・献納のとき、三尊画像だけは寺に残された。
わたしが観音懺法で拝した普賢・文殊がそれである。
・・・・・」(p77)

はい。相国寺の写真にまじって、三尊画像も
この本に写真が載っておりました。





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