沼波瓊音著「徒然草講話」を読んでみました。
とても私の理解力では、読解したとは言えないのですが、
最初の読了の感想を書き記しておくのは、まんざら無駄にはならないと感じ、
とにかく読了した感じを残しておきます。
思い浮かんだのは、俳句と俳諧とでした。
たとえば、桑原博史著「徒然草の鑑賞と批評」の最初にある
「徒然草を読むために」で、桑原氏は
「序段から第243段まで、総計244からなる章段を配列した作品である。その章段配列は、時に話題が連なり、時に話題が大きく転換する、連歌的ともいうべき関係で連続している。」
その後に、京から摂津に行く街道筋にある水無瀬(みなせ)のあたりで、宗祇・肖柏・宗長の三人が詠みかわした『水無瀬三吟』を引用してみせながら、
こう書いております。
「この、柔らかな連続や鋭い変転の妙を生かして、徒然草の章段構成がなりたっているという考え方は、実に自然であり理解しやすい。」
こう理解を示しながらも、桑原氏は「やや章段順序を追って行くだけでは物足りない」として徒然草の「鑑賞と批評」を分類しながら一冊にまとめておりました。
ちょいと寄り道をしました。
沼波瓊音著「徒然草講話」は最初から最後まで徒然草の順序で講話を続けております。
そのことを私は語りたかった。
読後の私の感想はというと、
まるで「徒然草」全曲を通しての演奏を鑑賞した気分にひたっております。
各章段の小曲を即興で聴いたことはあったのですが、
全曲を通しで聴くのは初めてでした。
演奏が長いので途中で私は眠ったりしておりました。
目が覚めると、またその演奏の途中から聴いていたわけです。
とてものこと、全曲の姿を輪郭も示しえないのでした。それでも
聴き終わると、その旋律が耳に残っているのです。
演奏者の沼波瓊音は、ピアノではなく、チェンバロを弾いているようで、
全曲の曲想をしっかりと押さえている堂々とした演奏でした。
その全曲の解釈を最初に示しているのが第11段の【評】にあります。
「一体この徒然草は、始から終りまで、一つの事を書いて、その事からふと他の事を思いついて、次に書くと云風に出来て居るので、厳格に云えば、段を切ると云事は、不自然な事になるのです。昔からこの書の注書には段を切ってあって、そしてその段の切りように、説の分れて居る所もあるが、私は、この分段の事は便宜上の事として置きたい。だから人の好き好きに分けて構わないと思う。・・・
よく文を論ずる人が、解剖的のことばかり云ひたがるために、聞く人が、作者がさういう手段を意識してやってると思い易いが、必ずしもそうで無い。手段を意識した文には碌なものは無い。作者はただ感のままを書き流して行ったのが、調べて見ると、自らその文に旋律があると云うだけのことである。」(p36)
(「徒然草講話」東京修文館・大正10年初版・引用しているのは昭和25年版で旧字は現代文にかえて引用しております。ページは私がもっている昭和25年版のページ)
この段から段への続き具合を味わいながらの講話がこの本の魅力ある旋律を味わう箇所です。ですから、ちょいと煩わしいのですが、そこを取り上げていきます。
たとえば第13段の【評】
「前の段で、友と云うものを否定した。それを受けて、書を読んで古人を友とするのは実に大いなる慰籍であると云って来たのである。この続き具合を味わうべきである。私も一々同感である。」(p41)
「この徒然草は、大部分において、前段と後段と微妙なる連想の繋ぎで成り立って居る。これは他人の編によって決して為し得られるもので無い。」(p60)
そして、飛ばし読みを戒めている箇所もあるのです。
「新しい人たちは徒然草を面白がる。しかしそう云う人たちは、こう云う所を飛ばして読む。しかしこう云う所に兼好の繊細な一面が顕われてることを気を付けて貰いたい。私は、口を開けば必ず宇宙を説き人生を説いて居るだけの人を不具者のように思う。」(p101~102)ちなみにこれは第34章の【評】。
第41章の【評】はというと
「面白い実話を思い出して書いたのである。これは前々段の『眠』から連想して思い出したものらしい。この徒然草は、それからそれへと連鎖がつながってるところが多い、と云う事は芳賀先生に承ったことである。それまではしみじみとはこの事に気が付かなかった。こんな事は注意しなくても宜しいことであるが、注意して見ると、兼好の所謂『心にうつり行く』心の状態が段々見えて行って、その点でも面白みがある。ここなどは一つ飛んで縁がある。こう云う事も、我々が随筆やうのものを書く時にもあることだ。もっとも全く鎖のきれてるところもある。それは自然なことである。どこもここも皆連鎖であったら、却ってこの書は作り物めいて厭味にもなるのだ。」(p120)
第58段の【評】「この段と前段との連絡に注意すべきである。前段に、くだらぬ来訪者にイライラした事の記憶を書いた。くだらぬ奴に会う。この事から、在俗の煩わしさ、出家後の純、と云う事を書く心持になって来て、この段になったのである。」(p165)
第80段の【評】の最後には
「徒然草を読む人は、一度は段切りして解をしたものによって読んで、次には、何段何段と云うことを、全く見ないで、本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。」(p228)とあります。
この講話では、その「本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。」を率先してご自身が読み通したという醍醐味があるのです。
それが、私には「徒然草」全曲を演奏する、名演奏家におもえてくるのでした。
その名演奏家・沼波瓊音は、確信を持っているようです。
「この書の各段順序は、読んでみると、どうしても兼好が書いて行ったままの順序と思われる。徒然草と云う書は、兼好が、それは経巻の裏に書いたか何に書いたか知らぬが、この順序で書かれて、まとまって居たものとどうも思われる。段々の心の移り行く工合、いかにも微妙に自然であって、迚(とて)も後人の編纂でこれだけ自然にゆく筈は無いからである。」(p612)
この「徒然草」全曲の読み込みが、そのままに徒然草講話の旋律となって、読む者を、おっとここでは(私みたいな)聴衆を陶然とさせるのでした。
とても私の理解力では、読解したとは言えないのですが、
最初の読了の感想を書き記しておくのは、まんざら無駄にはならないと感じ、
とにかく読了した感じを残しておきます。
思い浮かんだのは、俳句と俳諧とでした。
たとえば、桑原博史著「徒然草の鑑賞と批評」の最初にある
「徒然草を読むために」で、桑原氏は
「序段から第243段まで、総計244からなる章段を配列した作品である。その章段配列は、時に話題が連なり、時に話題が大きく転換する、連歌的ともいうべき関係で連続している。」
その後に、京から摂津に行く街道筋にある水無瀬(みなせ)のあたりで、宗祇・肖柏・宗長の三人が詠みかわした『水無瀬三吟』を引用してみせながら、
こう書いております。
「この、柔らかな連続や鋭い変転の妙を生かして、徒然草の章段構成がなりたっているという考え方は、実に自然であり理解しやすい。」
こう理解を示しながらも、桑原氏は「やや章段順序を追って行くだけでは物足りない」として徒然草の「鑑賞と批評」を分類しながら一冊にまとめておりました。
ちょいと寄り道をしました。
沼波瓊音著「徒然草講話」は最初から最後まで徒然草の順序で講話を続けております。
そのことを私は語りたかった。
読後の私の感想はというと、
まるで「徒然草」全曲を通しての演奏を鑑賞した気分にひたっております。
各章段の小曲を即興で聴いたことはあったのですが、
全曲を通しで聴くのは初めてでした。
演奏が長いので途中で私は眠ったりしておりました。
目が覚めると、またその演奏の途中から聴いていたわけです。
とてものこと、全曲の姿を輪郭も示しえないのでした。それでも
聴き終わると、その旋律が耳に残っているのです。
演奏者の沼波瓊音は、ピアノではなく、チェンバロを弾いているようで、
全曲の曲想をしっかりと押さえている堂々とした演奏でした。
その全曲の解釈を最初に示しているのが第11段の【評】にあります。
「一体この徒然草は、始から終りまで、一つの事を書いて、その事からふと他の事を思いついて、次に書くと云風に出来て居るので、厳格に云えば、段を切ると云事は、不自然な事になるのです。昔からこの書の注書には段を切ってあって、そしてその段の切りように、説の分れて居る所もあるが、私は、この分段の事は便宜上の事として置きたい。だから人の好き好きに分けて構わないと思う。・・・
よく文を論ずる人が、解剖的のことばかり云ひたがるために、聞く人が、作者がさういう手段を意識してやってると思い易いが、必ずしもそうで無い。手段を意識した文には碌なものは無い。作者はただ感のままを書き流して行ったのが、調べて見ると、自らその文に旋律があると云うだけのことである。」(p36)
(「徒然草講話」東京修文館・大正10年初版・引用しているのは昭和25年版で旧字は現代文にかえて引用しております。ページは私がもっている昭和25年版のページ)
この段から段への続き具合を味わいながらの講話がこの本の魅力ある旋律を味わう箇所です。ですから、ちょいと煩わしいのですが、そこを取り上げていきます。
たとえば第13段の【評】
「前の段で、友と云うものを否定した。それを受けて、書を読んで古人を友とするのは実に大いなる慰籍であると云って来たのである。この続き具合を味わうべきである。私も一々同感である。」(p41)
「この徒然草は、大部分において、前段と後段と微妙なる連想の繋ぎで成り立って居る。これは他人の編によって決して為し得られるもので無い。」(p60)
そして、飛ばし読みを戒めている箇所もあるのです。
「新しい人たちは徒然草を面白がる。しかしそう云う人たちは、こう云う所を飛ばして読む。しかしこう云う所に兼好の繊細な一面が顕われてることを気を付けて貰いたい。私は、口を開けば必ず宇宙を説き人生を説いて居るだけの人を不具者のように思う。」(p101~102)ちなみにこれは第34章の【評】。
第41章の【評】はというと
「面白い実話を思い出して書いたのである。これは前々段の『眠』から連想して思い出したものらしい。この徒然草は、それからそれへと連鎖がつながってるところが多い、と云う事は芳賀先生に承ったことである。それまではしみじみとはこの事に気が付かなかった。こんな事は注意しなくても宜しいことであるが、注意して見ると、兼好の所謂『心にうつり行く』心の状態が段々見えて行って、その点でも面白みがある。ここなどは一つ飛んで縁がある。こう云う事も、我々が随筆やうのものを書く時にもあることだ。もっとも全く鎖のきれてるところもある。それは自然なことである。どこもここも皆連鎖であったら、却ってこの書は作り物めいて厭味にもなるのだ。」(p120)
第58段の【評】「この段と前段との連絡に注意すべきである。前段に、くだらぬ来訪者にイライラした事の記憶を書いた。くだらぬ奴に会う。この事から、在俗の煩わしさ、出家後の純、と云う事を書く心持になって来て、この段になったのである。」(p165)
第80段の【評】の最後には
「徒然草を読む人は、一度は段切りして解をしたものによって読んで、次には、何段何段と云うことを、全く見ないで、本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。」(p228)とあります。
この講話では、その「本文だけ、通して読んで見なくてはいかぬ。」を率先してご自身が読み通したという醍醐味があるのです。
それが、私には「徒然草」全曲を演奏する、名演奏家におもえてくるのでした。
その名演奏家・沼波瓊音は、確信を持っているようです。
「この書の各段順序は、読んでみると、どうしても兼好が書いて行ったままの順序と思われる。徒然草と云う書は、兼好が、それは経巻の裏に書いたか何に書いたか知らぬが、この順序で書かれて、まとまって居たものとどうも思われる。段々の心の移り行く工合、いかにも微妙に自然であって、迚(とて)も後人の編纂でこれだけ自然にゆく筈は無いからである。」(p612)
この「徒然草」全曲の読み込みが、そのままに徒然草講話の旋律となって、読む者を、おっとここでは(私みたいな)聴衆を陶然とさせるのでした。
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