淡交社「古寺巡礼京都」⑥(昭和51年)は、
文は秦恒平。写真は浅野喜市。
秦恒平氏の文は10ページ。
短文ですが、奥が深い。どこから、引用しましょうか。
こんな箇所はどうでしょう。
「境内で遊んだが、界隈の俗人が暮しの中で建仁寺ないし
坊さんと触れあうのは何より托鉢の時だ。三、四人が班をつくって、
『おーおー』と謡うごとく喚ぶごとく、粗衣に素足のわらじばきで
町なかの小路小路を一列に練り歩く。時には独りで家の前に立つ
坊さんもたしかにいた記憶があるが、いずれにせよ建仁寺僧堂の
托鉢行は、朝早の、かんかんと空まで凍てつく季節にひときわ
印象的な風物詩であった。」(p71)
うん。建仁寺の場所はどこか?
「そもそも祇園都踊りで名を売った歌舞練場のあたりも、
正伝永源院から東側も北側も、つまりは祇園花街が
建仁寺北辺を蚕食してきたことは紛れもない。
皇都の禅刹に嚆矢をなした東山建仁寺と、
月は朧ろの東山、祇園の色里とはもう久しく
建仁寺垣一重の隣同士であり・・・・・
祇園ばかりではない。西、鴨川、疎水ぞいには
やはり遊里宮川町があり、川向う四条より北に先斗町
・・・・・・・・かくてまた色不異空、空不異色の世界で
京都はあり、建仁寺界隈はあるのだった。
『建仁寺の学問づら』という寺風には一枚裏にそれだけの
味を隠している。『学問』という二字がふしぎに生きてくる。」
台風の被害という指摘もありました。
「御多分に漏れず明治このかた建仁寺も
だいぶん内証は淋しかったようだ。
塔頭も減ってしまった。台風の被害で
本坊を中心に手痛いめに遭った頃はよくよく
苦しいに違いないと我々の家でさえ噂した。
正伝院と永源院が正伝永源院という一つの塔頭に
まとまった時に、織田有楽斎が造った茶室如庵が
どこやらの富豪に身売りされて大磯へ、昭和46,7年
には犬山の有楽苑に運ばれた、その身売り当時の
面白い話を聴いている。・・・」
うん。最後の方も引用しなくちゃね。
「佳い襖絵や佳いお庭があるからそのお寺が立派
というほどの、妙な錯覚に我々は嵌り過ぎている。
・・・・・・
建仁寺をお寺さんとしてふだんに意識し親愛している
祇園界隈の者には、却って・・・襖絵や庭や茶席は従うのものであり、
縁も薄い。一生の内に夢にもそんなたいしたものがあの
『けんねんさん』に秘蔵されているなどと、一度も知らず
気づかない人ばかりが町じゅうに溢れ返るように
建仁寺四囲四方に昨日も明日も暮しているのだ。」
はい。建仁寺を10頁で教えてくれていました。
この秦恒平氏が、昭和10年生まれです。
はい。明日のブログは、海北友松。
建仁寺の芸術へと触手を伸ばします。
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