和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

さらりとした人間素描。

2021-05-05 | 枝葉末節
新刊書店にはなく、古本でよかったと思うのは、
私家版の「追悼文集」が身近に手にはいること。
そうだと私は、思います。
今回、紹介するのは2冊。

「和田恒 追悼文集野分」(私家版・昭和56年)
桑原武夫著「人間素描」(筑摩叢書・1976年)

まず、私家版をあとにして、
ここは、筑摩叢書「人間素描」から、
筑摩叢書には、二つのはしがきがあります。
「初版はしがき」(文藝春秋新社・1965年)と
「増補新版はしがき」(筑摩書房・1976年)
その初版はしがきから、

「17世紀のフランスには、ポルトレという文学の1ジャンルがあった。
それは文字をもってする肖像という意味で、対象とする人間の風貌
だけでなく、その気質さらに行為までも描き出そうとする。しかし、
本格的な伝記ないし学問的な人間研究といったしかつめらしく長々
しいものではなく、いわばさらりとした人間素描である。・・・」

「外的瑣末事と見えることが、
学問や芸術の本質と深くかかわりうるというのが私の考えである。」

久しぶりに、この本を本棚からとりだして、パラパラとめくる。
今回あらためて読み直したのは「森外三郎先生のこと」でした。
はじまりを引用。

「湯川秀樹君がノーベル賞をもらったとき、
自分の学問の基礎に京都一中の自由主義的な校風がある、
という意味の談話を発表したことがあるように記憶する。
 ・・・・・
あの時代の校風と関係があり、その校風は森外三郎校長の
人柄がつくり出したものだろうと話し合った。そして、
森さんのことを一ぺん書いて下さいな、と湯川君に頼まれた。
同君は忘れたかもしれないが、ふともらした文春子は地獄耳であった。」

そのあとに
「私は大正6年に京都一中に入学した。・・・・」と、
このように桑原氏は、森外三郎先生を書きはじめておりました。
16ページに及ぶ文は文藝春秋の1956年12月に発表されております。

うん。この本の紹介はここまでにして、
つぎ、私家版「和田恒 追悼文集野分」。
その最後には、和田恒年譜がありました。
昭和6年(1931)生まれ。そして昭和55年(1980)49歳で死去。
27歳で中央公論に入社。中央公論のシリーズで
「日本の名著」「世界の名著」「日本語の世界」を手がける。
杉本秀太郎氏も追悼文を寄せております。
杉本氏は「世界の名著」と「日本語の世界」での和田恒氏と
の関係に触れた追悼文でした。ですが、ここでは
松田道雄氏の追悼文を引用することに。

「中央公論社で『日本の名著』というシリーズをだすらしい
と聞いたのは、昭和43年(1968)の中ごろだったかと思う。
日本の古典を現代語に訳してだしてもらえたら大いにたすかる。
『世界の名著』とおなじに、そろえて身辺におきたいと思っていた。

10月の始めに和田さんが、
『貝原益軒全集』の八巻をもって訪ねてこられたときはおどろいた。
私に益軒を訳すようにという話だったからである。それまでに
和田さんにおあいしたことは、なかったように思う。・・・・

・・・・『訳』がうまくできるかどうかあやしい。そういって
ことわりつづけたが、和田さんは終始にこにこ笑って、
きっとできますから、本をおいていきますといって帰っていかれた。
おいていかれた全集をぱらぱらみているうちに・・・・
10日ほどして和田さんが再度こられたときは、押し切られてしまった。

・・・べつに強引というのでなく、何となく
承知しないといけないような気にさせられてしまったのである。
その後にもそういうことはなかったから、
やはり和田さんのうでというものだったろう。

・・・私は900枚を年内にかくことになった。強行軍であったが、
テープレコーダーをつかって、自分の訳と平行して、家内に速記
してもらったので12月にはできてしまった。

和田さんがしょっちゅうこれられるようになったのは翌年の2月から
3月にかけて、ゲラがあがってくるようになってからだった。
口述のリズムが手伝って、現代的にすぎる訳が少なくなかったが、
和田さんは実に的確にそういうところをみつけてこられて、
原文に忠実であるように注意してくださった。今になってみると、
和田さんのいうことをきいておいてよかったと思う。

・・・・・和田さんは京都にこられるたびに、
『京都新聞』の夕刊を精読されたようだ。そこで
『現代のことば』という欄に私がときどきかいていたのを発見されて、
あれを本にしましょうよと何度もいってくださった。
『現代のことば』は地方紙の随筆であったので、私もリラックスし、
実学から逸脱するところもあった。和田さんはそこが好きだったようだ。
昭和47年になって『洛中洛外』として中央公論社からでたのが、
それである。・・・・」(p113~p115)


うん。外山滋比古氏も『編集者の山芋』と題して書かれていて、
印象に残るので、最後にこちらも引用しておきます。

「『うちの裏の山でじねんじょがとれましてネ。…』」とはじまります。

「・・・『・・・山芋をきのう堀りましたので少しおもちしました。』
・・・・まあまあ、お上がりくださいということになって、
山芋を折らずに堀りあげるのがいかに難しいかというような話を聞いた。
・・・そういう山芋をもらって、こちらも胸が熱くなるようだった。
・・・よほど本作り、編集が好きであったに違いない。
仕事もじねんじょのようなものであったかもしれない。
折れないように、折れないように、なんとかして、みごとな芋を
そっくり掘り出そうとしていて、つい、自分を折ってしまったのである。

8年前にふとしたきっかけで和田さんを知るようになった。
初対面のときに、何か本を出してみませんか、とすすめてくださった。
すき通るような好意を感じた。喜んでその気になってはみたものの
なかなか思うにまかせない。そんなとき、和田さんは山芋を掘り上げる
ようにそっとやわらかくはげましてくれる。それから1年してやっと
私の『日本語の論理』は出た。考えてみると、私も和田さんに
掘り出してもらったごく貧弱な山芋の一本であるような気がする。
和田さんとは、中央公論社の和田恒氏のことである。
まだ若いのに、11月はじめに急逝された。・・・」(p86~87)

う~ん。これは、私家版でしか味わえないのかも。





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