和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

船形町の関東大震災。

2024-03-01 | 安房
北條町の「50歳前後と覚しき土地の者一人 」による流言蜚語が
「暴民大挙襲来事実無根 」と報告されるまでの顛末は前に紹介しました。

それでは、船形での関東大震災の当日の様子はどうだったのか。
それを、以下の2冊の記録から紹介したいと思います。

 〇 「安房郡船形町震災誌」船形尋常小学校編纂・改訂版
 〇 「大正震災の回顧と其の復興」上巻

まずは、2冊目の上巻から引用。
当時の船形町長は正木清一郎。「齢70歳に近き」とあります。
おそらく、船形小学校長との会話が再現されている記録として読みました。

「翁(町長)曰く、時に君とんだ事になったね、
 町の大部分は倒潰した其の上にあの大火災、
 純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ。
 全力をこの事に注がなければならない。

 如何にしようかとのご相談・・・・又曰く、
 ああ咄嗟の場合よい考も出ないが
 明朝夜の明くるを待て学校の運動場に行き
 町会議員、区長、米穀商を召集し、其の善後策を講じませう。

 夜の明くるを待って校庭に行き使を遣はし
 名誉職並米穀商を召集し、協議の結果直ちに
 本町在米の調査を致せしに漸く一日を支へるに足るか否かの米。
 程なく直ちに役場吏員を派して、
 被害僅少といはれる瀧田村平群村より長狭方面に米の注文をさせ、
 為に他の被害地よりも早く供給を得、町民も安堵の色見えたのであった。」
                      ( p912 上巻 )

つぎに「安房郡船形町震災誌」をひらくことに。
その青年団という箇所は日付による記載があります。

9月1日 午後3時半、町長の使命にて団長・忍足勤吾、理事・斉藤忠七氏、
    郡役所へ船形町の震火災報告並びに万般の配給救護依頼に出頭し、
    午後8時半帰着。

9月2日 午前6時、本町川名藤屋薬舗より種々薬品を掘り出し、
    直に鉄道路上に避難し居たる負傷者に対し応急治療をなす。

9月3日 団員一同にて夜警並びに公設物作業に従事することとなし、
    団長は役場に出頭、米の配給をなす。尚、吉尾村在郷軍人、
    同青年団員の応援を得、各所の死体探索をなし、午後6時散開。
・・・   ・・・・・          ( p42~43 )



  まだ続くのですが、つぎにゆきます。
官民の視察という箇所には

9月2日  安房郡書記・武田宗二郎
9月3日  安房郡長・大橋高四郎
9月4日  千葉県属・平山桂治、小林哲一郎    
・・・         ・・・・・    ( p16 )

罹災者救助の箇所も最後に引用しておきます。

9月2日  火災被害者救護の第一として救助米を給与すべく、
     町会議員、区長及び代理者を召集し、
     一人一升の割とし約40俵給与す

     大山及び吉尾青年団員約60名、応援に来る    

9月3日  町長は震源地の確信を得、余震度数の減じたるを認め、
     尚糧食配給の確定を得て人心を安定ならしむるため、
     吏員をして全町に通報せしむ

     瀧田青年団25名、握り飯5斗、練乳未製品4斗を持参して来り、
     救助に尽くさる。尚、村長、玄米11俵5升、白米3俵、
     糯(もちごめ)3俵持参せらる

     夜12時頃、平群村より玄米21俵、青年団より運搬せらる
     他町村よりも応援に来り、大いに意を強くす    ( p25 )


罹災者救助の箇所の日付を追ってゆくと印象深い箇所がありましたので
最後にそこを引用。

10月8日 災害の後殆ど座食(注:無職のままで生活をする)の有様にて
     職業に従事せざる者をして、収入の道を講ぜんとして

     町長専ら心配し、東京行き人夫を募集し、
     この日午前7時に集合し、8時に海路出発す。

     この時の町長の訓辞は、細心にして慈母の子弟に対するが如く、
     聞く者をして皆頭を低く垂れしめ、泣かざるなかりき
                         ( p27~28 )
    


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