原田種成著「漢字の常識」(三省堂・1982年。1993年第12刷)の感想。
さっそく話がそれますが、こちらでは山車の引き回しが10月にあります。これがもう青年長になるのが50歳代中頃から60歳にかけて。じつに、青年長というのは名ばかりで高齢なのであります(まあ、地区地区によって、特色があります)。
ということで、私は今年、祭りの会計になるのでした。昨年は臨時会計として祭の寄付の集計。祭当日は山車曳き回す人とは別に、臨時会計として、だいたい60代以上80代までの方を頼んで、寄付をもらって、最後に集計してもらうのでした。その方々が名簿では6~10名。実際は、まあ5~6名。
それでもって、昨年の私の役目は、集計した寄付の集計役。山車曳き回しの最後の方で、集会所に臨時会計さんにあつまってもらって、ご寄付の集計と、のし袋の名前・地区確認というのを5~6名でやっていただく、私は何をするかというと、その際のお茶汲み、食事の世話等であります。
その方々が、60代後半から70代後半ぐらいなわけです。
その方々に、集計を、さらに細かく金額と名前を確認して、その地区の一覧を書き込んでもらっております。
その名前確認の作業中にですね(やっと、本題に近づいた)。
ある方が間違いやすい漢字の書き方を、小学校の先生から習った。というのです。
すると、「いいや、私は習わなかったなあ」というような話になったのでした。
それが、こちとらは、全然身に覚えのない話だったので、かえって新鮮でした。
その具体的例が、この本に載っていたというわけです。
たとえば、(p127)
「瓜(うり)につめあり、爪(つめ)につめなし」
「牛に角あり、午(うま)に角なし」
こんなのもありました。
「巳(み)は上に、已(すで)に已(やむ)已(のみ)中ほどに、己(おのれ)己(つちのと)下につくなり」
また「キ・コの声、おのれつちのと下につき、イ・すでは中、シ・み上につく」
さらに、
祇(左のネは示)と祗。
「この二字も区別がしにくい。・・『主内儀(あるじないぎ)』という言葉を思い出すとよい。すなわち『一』がある祗の字の音は『シ』であり、『一』がない祇の字の音は『ギ』である。・・『宗祇(そうぎ)』が正しい。」
『一チョウ、二キン、ムコウ』は
釣・鈞・鈎(鉤)。
「キンと読むときは勹の中には = のように二つ書く。平均の均もキンだから = を書かねばならぬのに、一 や 、 に誤るものがある。」
そして、作者のこんな意見が載っておりました。
「文部省内国語審議会・・・・国語審議会は、久しい間、ローマ字論者が会長であり、漢字についての専門家が全く除外されていたので、登用の意味が曖昧になっていたのであった。本当に改革するならば、改革すべきものについての十二分の知識のある人が参画していなければ、その成果は期待することはできない。要するに、漢字というものは、横に何本引いて、縦に何本引くというような、機械的な丸暗記で覚えようとするのは、労多くして効果があがらず、ばかげたことである。ここに述べたように、字形の特徴をとれえて、口で言えるようにして覚えるのが、漢字習得の早道であることを強調したい。」(p133)
変った知識としては、こんなのもありました。
「『和尚』という言葉は、禅宗ではオショウといい、天台宗ではカショウ、真言宗ではワショウ、法相宗(ほつそうしゅう)と律宗ではワジョウと濁って読むということである。・・・
『ギョエテとは、おれのことかと、ゲーテいい』という川柳があるように、・・・外来文化を受け入れなければならない、日本文化の宿命ともいえよう。」(p185)
以上、図書館に本を返さなければいけないので、ここまで。
さっそく話がそれますが、こちらでは山車の引き回しが10月にあります。これがもう青年長になるのが50歳代中頃から60歳にかけて。じつに、青年長というのは名ばかりで高齢なのであります(まあ、地区地区によって、特色があります)。
ということで、私は今年、祭りの会計になるのでした。昨年は臨時会計として祭の寄付の集計。祭当日は山車曳き回す人とは別に、臨時会計として、だいたい60代以上80代までの方を頼んで、寄付をもらって、最後に集計してもらうのでした。その方々が名簿では6~10名。実際は、まあ5~6名。
それでもって、昨年の私の役目は、集計した寄付の集計役。山車曳き回しの最後の方で、集会所に臨時会計さんにあつまってもらって、ご寄付の集計と、のし袋の名前・地区確認というのを5~6名でやっていただく、私は何をするかというと、その際のお茶汲み、食事の世話等であります。
その方々が、60代後半から70代後半ぐらいなわけです。
その方々に、集計を、さらに細かく金額と名前を確認して、その地区の一覧を書き込んでもらっております。
その名前確認の作業中にですね(やっと、本題に近づいた)。
ある方が間違いやすい漢字の書き方を、小学校の先生から習った。というのです。
すると、「いいや、私は習わなかったなあ」というような話になったのでした。
それが、こちとらは、全然身に覚えのない話だったので、かえって新鮮でした。
その具体的例が、この本に載っていたというわけです。
たとえば、(p127)
「瓜(うり)につめあり、爪(つめ)につめなし」
「牛に角あり、午(うま)に角なし」
こんなのもありました。
「巳(み)は上に、已(すで)に已(やむ)已(のみ)中ほどに、己(おのれ)己(つちのと)下につくなり」
また「キ・コの声、おのれつちのと下につき、イ・すでは中、シ・み上につく」
さらに、
祇(左のネは示)と祗。
「この二字も区別がしにくい。・・『主内儀(あるじないぎ)』という言葉を思い出すとよい。すなわち『一』がある祗の字の音は『シ』であり、『一』がない祇の字の音は『ギ』である。・・『宗祇(そうぎ)』が正しい。」
『一チョウ、二キン、ムコウ』は
釣・鈞・鈎(鉤)。
「キンと読むときは勹の中には = のように二つ書く。平均の均もキンだから = を書かねばならぬのに、一 や 、 に誤るものがある。」
そして、作者のこんな意見が載っておりました。
「文部省内国語審議会・・・・国語審議会は、久しい間、ローマ字論者が会長であり、漢字についての専門家が全く除外されていたので、登用の意味が曖昧になっていたのであった。本当に改革するならば、改革すべきものについての十二分の知識のある人が参画していなければ、その成果は期待することはできない。要するに、漢字というものは、横に何本引いて、縦に何本引くというような、機械的な丸暗記で覚えようとするのは、労多くして効果があがらず、ばかげたことである。ここに述べたように、字形の特徴をとれえて、口で言えるようにして覚えるのが、漢字習得の早道であることを強調したい。」(p133)
変った知識としては、こんなのもありました。
「『和尚』という言葉は、禅宗ではオショウといい、天台宗ではカショウ、真言宗ではワショウ、法相宗(ほつそうしゅう)と律宗ではワジョウと濁って読むということである。・・・
『ギョエテとは、おれのことかと、ゲーテいい』という川柳があるように、・・・外来文化を受け入れなければならない、日本文化の宿命ともいえよう。」(p185)
以上、図書館に本を返さなければいけないので、ここまで。
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