和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

1月のグレン・グールド。

2021-01-30 | 本棚並べ
コロナ禍の1月は、今日と明日でおわります。

さてっと、古本でミシェル・シュネデール著、千葉文夫訳
『グレン・グールド 孤独のアリア」(筑摩書房・1991年)が
200円で手にはいる。
その本のはじまりは

「1964年のことだった。それまで輝かしい演奏家として
名を馳せていたカナダのピアニストのグレン・グールドは、
コンサート活動から完全に身をひいてしまった。
1982年に死去するまで、その後の彼はレコード録音、
ラジオおよびテレビ番組、・・・文章を書くなどの
仕事以外はやらなかった。・・・」(p5)

はい。1月の演奏会の様子も出てきます。

「1957年1月。その晩、グールドは
レナード・バーンスタイン指揮によるニューヨーク・フィルと
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番を演奏することになっていた。
協奏曲の演奏は9時半開始の予定だった。
 ・・・・・・・
午後はずっと眠って、7時半に起きると、部屋から外に出ることなく、
協奏曲を二度ばかりさらってみた。奇妙な演奏法だった。
ほとんど四六時中はめている手袋を脱ぐと、部屋にあった
ピアノには触らず、虚空に指先を動かして演奏した。室内を歩き回って、
顎でオーケストラを指揮し、ふたつのパートを声をはりあげて歌うと
いうありさまだった。8時半頃、腕から指先までを熱い湯にひたす
儀式をはじめ、それが1時間近くつづいた。

カーネギー・ホールに彼が到着したのは、
自分の出番の2分前のことだった。
極地探検にでも出かけるようないでたちだった。
毛皮のコートや服を三重か四重に着込んで・・
その下には太い毛糸で編んだぼってりしたセーターを着ていた。」
(p42~43)

以下も1月からの引用。

「1955年1月という時点において、すでに
グールドはカナダではスターだった。・・・・
アメリカ・デビューはワシントンのフィリップス・ギャラリー
が舞台となった。1955年1月2日の午後、グールド22歳のときである。
・・・・
この『デビュー』以来、彼が守り抜いてきた方針がある。
要するに演奏に悦びを感じる作品しかコンサートでとりあげない
ということ・・・・

1月11日の晩はニューヨークのタウン・ホールでのデビューとなった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙の批評家はこの新人の出現に触れて
『グールド氏の演奏のきわだった特徴は、
聴衆をして音楽を聞く気分にさせることにある』と書いている。
・・・・」(p46~47)

はい。1月のグレン・グールド。
「腕から指先までを熱い湯にひたす儀式を・・1時間近く」
というのが、忘れられない箇所となりました。


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