清水幾太郎著「流言蜚語」のはじめの方にこうあります。
「・・報道、通信、交通がその機能を果たさなくなった時、
社会の大衆は後になっては荒唐無稽として容易に片づけることの
出来るやうな言葉もそのまま受け容れるのであって、
どんな暗示にも容易にひっかかってしまふものである。
軽信性は愚民の特徴だと言はれるが、
かういふ場合に動じないのは余程の賢者か狂人である。
関東大震災の時に落着いてゐたために助かった
若干の人は、その落着きを賞讃されたが、
しかしこの同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々に対して
世間は最早この落着きを讃へはしない。
この場合にはそれは落着きといふ名さへ与へられないのである。 」
( p18 「清水幾太郎著作集2」講談社 )
『 この同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々 』とあります。
どちらかといえば、私はその多くの人々の一人になるタイプです。
そんなことを思い浮かべては、つぎへと行きます。
うん。今こうして地元の関東大震災の記録を引っくり返しているのは、
いまならば、まだ地震が起きていない。
いまならば、『 急がば回れ 』という落着きが示せる。
ということで、ここでは、
『 急がば回れ 』を故事・ことわざ辞典で調べてみる。
「 急ぐときには危険な近道より、
回り道でも安全な本道を通って行け。
用例: 宗長のよめる
もののふのやばせの舟は早くとも
急がば廻れ瀬多の長橋 (醒睡笑-1) 」