斎藤緑雨の『おぼえ帳』は、
こうはじまります。
「紙十枚ばかり綴ぢたるをおぼえ帳とて、
幼きころは誰もしつる事なり。
・・ある時すこし引きちぎり紙縒(こより)の用に立てしが、
ついに鼻拭き紙におわる兆(きざし)なりけり。
似たるものなればわれもここにおぼえ帳と名(なづ)けて、
見聞くがままの浮世をいふも烏滸(をこ)がまし、・・・・
・・ほんのそこらの落葉時雨、窓の下に筆の箒(ほうき)の
ただかきつくるものなり。」(p19)
うん。簡単なのから引用。
「牛は犬は猫はと問ふに、もうと啼く、わんと啼く、
にやあと啼くとまでは尋常(なみ)なりしも、
戯(たはぶ)れに虎はと聞けば、
さかしげなる女の児のしばらく小さき首傾げいたるが、
ややありて、とらあと啼く。」(p37)
「掃花遊(はなをはらってあそぶ)と書ける額の、
解(げ)し難しと一人がいえば、又一人のいう、
勘定を奇麗にしろという事だ。」(p28)
はい。短文のつながり方に、たのしみがあるので、
その部分部分をとりだすと残念な引用になります。
時節柄、こんな箇所を最後に引用。
「花の雲、上野もすでに遅しというほどの事なり。
動物園前の木(こ)の下(もと)に毛氈(もうせん)しきて、
僧四五人、やがて行く春の名残を惜しまんとやおもむろに茶を煮ながら、
あかぬ色香を世に墨染の袖に留めて、
日は暮近きに去らんともせざりしが、
掌に茶碗撫でつつ老たるが空ゆたかに看上ぐる顔に、
もとより淡紅(うすくれない)の今はた褪(さ)めたる雪一つかみ、
やや若きが覗き込みて、散りまするて
とのみあとは復言(またことば)無かりし。
衾(ふすま)を着する春風の歌おもひ出(いだ)されて、
さのみの事ならねどわれは忘れず。」(p20)
はい。最後の「春風の歌おもひ出されて」というのは
どんな歌なのだろう?『解し難し』と私がいえば、
どなたか、教えてくださるだろうか。
うん。『おぼえ帳』に記された「・・われは忘れず」が、
こまごました「おぼえ帳」のなかに浮き上がるのでした。
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