和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柳田国男の曖昧模糊。

2022-04-18 | 柳田国男を読む
桑原武夫は、亡くなる5年ほどまえに、
『柳田さんと私』という講演をしておりました。
そのなかに

「柳田さんは83歳になって『故郷七十年』という
 一種の自叙伝を口述筆記でお書きになっております。
 
 ・・・柳田さんはそこで、自分の一生はいわば
 一つの大きな川の流れであるといっています。

 ・・・あの文章(故郷七十年)は曖昧模糊として
 ちっともわかりません。井上ひさしさんも柳田さんの
 文章は読みにくい、何が書いてあるのやらさっぱりわからない
 と書いている。井上さんはそれは、先生が俳諧を体得されて、
 それを自分の民俗学にたくさん使っていらっしゃるのが癖に
 なったからではないかという解釈をしておられます。・・・・・

 (柳田国男の文章を)読んでいると、
 私などはもう相当年のいった人間ですから、そこから
 自分の幼いときのことがいろいろ思い浮かびます。

 友だちのことをツレと言うとか、お茶の子さいさいとか、
 女の人が好きな男の人にお酒を差すことを思い差しというとか、
 ・・・・・
 そういう私どもが幼いときに使っていた言葉がつづってあって、
 そこから一つの世界が出てくるのですけれども、しかし、
 それではどういうことを相手に訴えようとなさっているのか、
 それが必ずしも全般的にはわからないところがあるのです。

 柳田国男における文体の研究を、ぜひどなたかに
 やっていただきたいと思うのです。・・・・」
   ( p14~16「日本文化の活性化」岩波書店・1988年 )

ちょっくら、引用が長くなりましたが、ここに
『 自分(柳田国男)の一生はいわば一つの大きな川の流れで・・ 』
とある。
そういえば、柳田国男の『故郷七十年』(朝日選書)のはじめの方に、
『布川時代』と題して利根川のことが出て来ておりました。

「私は13歳で茨城県布川(ふかわ)の長兄の許に身を寄せた。
 兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舎にいるという
 寂しい生活であったため、私はしきりに近所の人々とつき合って、
 土地の観察をしたのであった。布川は古い町で・・・」(p37)

その利根川について、一読忘れられない箇所があるので、
うん。この際、何度でも引用しておくことに。

「さて益子から南流する小貝川は泥沼から来るので、
 利根川に合流すると穢(きたな)くもあるし、臭くもなってしまう。

 ただ一つ鬼怒川だけは、実にきれいな水の流れであった。
 奥日光から来るその水は、利根川に合流しても濁らなかった。

 舟から見ても、ここは鬼怒川の落ち水だという部分が、
 実にくっきりと分かれていてよく判る。・・・・・・

 布佐の方ではあまり喧しくいわないのに、布川では、
 親の日とか先祖の日には、このきれいな鬼怒川の水をくみに行った。

 布川は古い町なので、一軒一軒小さな舟を持っていて・・・
 こういうものの日には小舟で行ってくんできて、
 その水でお茶をのむことにしていた。

 普段は我慢して、布川の方へ寄って流れている
 上州の水をのんでいるのである。
 上州の水が豊かに流れているその南側を
 小貝川の水が流れ、それを通り越して千葉県によった所に、
 鬼怒川の流れが、二間幅か三軒幅に流れているのであった。
 ・・・・・   」( p55~56 )

うん。『大きな川の流れ』から
『実にきれいな水の流れ』が思い浮かびました。

那珂太郎の「尾形仂と『歌仙の世界』」に
昭和20年のことが書かれております。

「 3月9日には東京に大空襲があり、死者七万をこえる
  惨状の詳細は伝えられていなかったが、予備学生出身で
  江田島にいた仲間の一人のところに、
  ≪ 家族ミナ爆死ス ≫という電報がとどいた。・・・

  その電報の受取人が他ならぬ尾形氏だったのだ。
  当時彼の御両親の家は東京の下谷区谷中三崎町にあったのだが、
  家もろとも文字通り家族全員が爆死されたのである。
  (  彼の第一著書『座の文学』扉裏には 
     『本書を空爆の犠牲になった両親の霊にささぐ』
     との献辞がしるされてゐた。  )

  その後彼の(私も同じ)赴任先の海軍兵学校は
  長崎県針尾から防府へ移るが、そこで彼の属していた
  生徒館は米軍の焼夷弾攻撃のために焼亡してしまふ。・・・
  焼跡から軍刀を下げて一人歩いてくる尾形氏の姿が、
  今なお私の脳裡には焼きついてゐる。
  ・・・・・・・・・・

  ・・・尾形氏の経歴をしるしたのはこの温厚篤実な学者が、
  弱年期の戦中から少からぬ悲運や労苦をかさね、決して
  坦々たる平穏無事な学究の道を歩いたのではないことに、
  大方の注意を促したかったからに他ならない。

  尾形氏の学識の広さと、緻密で隙のない研究態度は
  よく知られてゐるが、俳諧といふ専門領域ばかりではない、
  よりひろやかな文学の世界に関心を保持し、つねにその
  人生的意味を問ひつづける彼の志向の根柢には、右に見たやうな
  尾形氏自身の経験的素地があったのだといはなければならない。」

     ( p277~278 尾形仂著「歌仙の世界」講談社学術文庫 )


うん。『大きな川の流れ』と『実にきれいな水の流れ』。
那珂太郎さんのこの解説を読んだあとでした。
その流れのことを、思い浮かべておりました。





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4 コメント

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こんにちは(^^♪ (のりピー)
2022-04-18 15:01:50
利根川は「大きな川の流れ」ではありますが、現在千葉よりの流れが「実にきれいな水の流れ」なのかどうか・・・布川から布佐に架かる栄橋から見渡しても分からない感じでありますが・・・
返信する
う~ん。 (和田浦海岸)
2022-04-18 15:24:04
こんにちは。のりピーさん。
栄橋からの見晴らしの実況中継を
コメントとして、ありがたく拝見。

現在からなら利根川も柳田国男も
曖昧模糊としているのでしょうか。

ちなみに、
柳田国男13歳は、明治20年でした。
明治45年7月30日、明治天皇崩御。

利根川の流れとともに、柳田国男
ふたつして明治は遠くなりにけり。
返信する
Unknown (水仙)
2022-04-18 17:57:42
あの時代に兵庫県福崎から茨城県布川に引っ越すことは、現代人がアメリカに引っ越すより大変なことだったかもしれないと思います。それが柳田國男の民俗学に影響を与えたのかもしれませんね。私は福崎で柳田兄弟の短歌を読ませてもらいましたが、柳田國男の俳句については全く先入観がありませんから、勉強してみたいと思います。
返信する
そういえば。 (和田浦海岸)
2022-04-19 09:18:13
おはようございます。水仙さん。
コメントありがとうございます。

水仙さんのコメントで、
そういえば、と思い浮かんだ本が2冊。

小林秀雄の『信ずることと知ること』
柳田国男の『女性と俳諧』

はい。引用が長くなりそうなので、
今日のブログに書くことにします。
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