「臼井吉見を編集長とする思想文芸誌『展望』が筑摩書房から
創刊されたのは、終戦の年もおしつまった12月25日である。」
(p80・「編集者三十年」野原一夫著)
その創刊号には、三木清の絶筆に、永井荷風に、柳田国男が
目次にならんでおりました。
永井荷風の『踊子』については、こうありました。
「承諾を得たのは20年2月で、そのなかの一篇が『踊子』だった。
発表されるあてもない小説の執筆に、この老文豪はいのちを燃やし
ていたのである。しかし、戦時下の日本でこの・・原稿が日の目を
みるはずはなかった。・・・それがかえって『展望』のためには
さいわいした。・・・・
臼井が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは10月12日である。
・・尊敬の念を抱いていたこの民俗学の泰斗に、できれば原稿を書いて
もらいたいと臼井は考えていた。」(P85~86)
その『展望』という雑誌とは異なるのですが、
柳田国男著『先祖の話』という本があります。
ちなみに、柳田国男略年譜をみると
1945年(昭和20)70歳 戦死していった若人のために
『先祖の話』を執筆(翌年刊)
とあります。その『先祖の話』には自序があり、
自序の最後の日付はというと、昭和20年10月22日。
その自序のはじまりは、こうでした。
「ことし昭和20年の4月上旬に筆を起し、5月の終りまでに
これだけのものを書いてみたが、印刷の方にいろいろの支障があって、
今頃ようやく世の中へは出て行くことになった。
もちろん始めから戦後の読者を予期し、平和になってからの
利用を心掛けていたのではあるが、まさかこれほどまでに
社会の実情が、改まってしまおうとは思わなかった。
・・・・・・・・・・・・
強いて現実に眼をおおい、ないしは最初からこれを見くびってかかり、
ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今までひとつとして
成功していないことも、また我々は体験しているのである。
・・・・・
力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て
大いに働くべきで、空しき咏嘆をもってこの貴重なる過渡期を、
見送っていることはできないのである。
先祖の話というような平易な読み本が・・・・・
まず多数少壮の読書子の、今まで世の習いに引かれて
知識が一方に偏し、ついぞこういう題目に触れなかった人たちに、
新たなる興味が持たせたいのである。
・・・・事実の記述を目的としたこの一冊の書物が、
時々まわりくどくまたは理窟っぽくなっているのは、
必ずしも文章の拙なためばかりではない。
一つにはそれを平易に説き尽すことができるまでに、
安全な証拠がまだ出揃っておらぬ結果である。
このたびの超非常時局によって、国民の生活は
底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、
悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。
・・・・・」
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