久冨純江著「母の手 詩人・高田敏子との日々」(光芒社・平成12年)
を読めてよかった。いろいろと思うことがありました。
高田敏子の詩の舞台裏に案内されたような気分でした。
これは母・高田敏子と長女・久冨純江さんとのやりとりを通じ、
詩人・高田敏子の背景の深みを浮かび上がらせてゆく一冊です。
なんていっても、何もいっていないのにひとしいのですが(笑)。
読んでからしばらくすると、思い浮かぶ一箇所がありました。
そこを引用してみることに
「祖母・イトの妹で母(高田敏子)にとっては叔母にあたる
おとみおばさんが、78歳で詩のグループ『野火の会』に入った
と聞いたときには、その以外な組み合わせに驚いてしまった。
おとみさんは文学とは縁がなかったはず。・・・・・
おとみさんが『野火の会』に入ったのは昭和45年頃のことだが、
主人につづいて長男、戦後のシベリア抑留から最終船で帰還した
息子にも先立たれていた。姉のおイトさんも前年に失い寂しそう
にしていたので、母が詩を書くことをすすめたのだそうだ。
『そうねえ』というおとみさんのあっさりした答えに、
母のほうがびっくりする。『詩なんて、私などには書けないわ』
とか『いまさらこの年で』という返事が返ってくると思っていたのだ。
・・・・・
おそらく、法事か何かの席で久しぶりに会ったおとみおばさんに
母はいったのだろう。『詩はいいわよ。おばさん』・・・・・
明治24年生まれのおとみさんは会員850人ほどの『野火の会』の
最年長となった。自己流で作っていた短歌とは違って
『自由詩は難しい』と言いながらも、ぽつぽつと作品を発表し、
隔月に催される例会も楽しみに出席していた。具合のいいことに、
神楽坂の会場はおとみさんの家から歩いて行ける近さ。・・・・
詩を書き始めて6年目、84歳のおとみさんは『珊瑚の珠』という
詩集を出す。このときも、詩集にまとめたら、という母のすすめを
あっさり素直に受けたそうだ。
子どもや孫たちも出席した賑やかな出版記念会は、
大先輩の詩人・田中冬二も幼なじみということで駆けつけてくださり、
おとみさんの晩年に華やかな彩りを添えるものになった。
関東大震災と二つの大戦を経験して、喜びも苦労も味わった
老婦人の詩集。昔の思い出話や長男の死など過去の出来事が
主なテーマだろうと、正直なところ、私は少々気重な思いで
詩集を開いたのだった。
23の小篇は現在の日々の思いをあっさりとまとめたもので、
どれも素朴で明るい。私の知らないユーモアのあるおおらかな
おとみさんがいた。
おとみさんは詩集を出した後も
『書きたいことは、まだまだ、たくさんあるのよ』と、
気取らず、かまえず、子どものままの天心な心を
そのまま文字にしていった。90歳をすぎたおとみさんの
長寿の秘訣は、日々を率直な心で、喜びを見い出している
ところにあるのだろう、と母は言っている。
その後、足の弱くなったおとみさんは、
『野火』百号のお祝の会に次男に助けられ車椅子で出席した。
白髪の黒紋付の羽織姿は祖母そっくり。
母は腰をかがめておとみさんと言葉を交わしていたが、
会場の賑わいの中で、そこだけ、すっぽりと
真空パックに包まれたような懐かしい空間だった。」
(p148~p151)
うん。いろいろな場面が印象に残ったのですが、
ここだけを引用して満足することにします(笑)。
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