石井英夫著「産経抄 この五年」(文春文庫)の
解説を徳岡孝夫氏が書いておりました。
ちなみに、
石井英夫氏は1933年(昭和8年)生まれ。
徳岡孝夫氏は1930年(昭和5年)生まれ。
昨年、石井英夫氏が亡くなっているので、
徳岡孝夫氏はどうだったのかと検索する。
すると、2021年に新書が発売されておりました。
徳岡孝夫・土井荘平著「 百歳以前 」(文春新書)。
ジャーナリスト徳岡孝夫氏は、今だ健在のようです。
さっそく注文した『 百歳以前 』が届く。
まずは、帯を紹介。「 『男おひとりさま』の友情 」とある。
「 視力を失くしたジャーナリストは、同級生に電話で『原稿』を送る。
同級生はそれをパソコンで打ち込み、自身の暮らしを書き記す。
こうして本書は書きあげられた 」とあります。
はい。最初のページに載る土井荘平氏の「執筆のプロセス」から引用。
「徳岡孝夫君と私は、大阪の旧制中学の同級生である。」とはじまります。
すこし端折りながら引用をつづけます。
「 誰しも同級生の絆というものは他の関係にも増して深いものだが、
それに加えて私たち世代の同級生には、中学時代が戦争のさ中で、
3年生から4年生にかけての戦争末期の特殊な体験を共有している
という絆があった。・・・・・・
中学時代に深いツキアイがなかった間柄が、こんな共通体験を
話し合ううちに、その距離がアッという間になくなって以来20数年、
ここ数年は二人とも妻を喪い、独り身になったせいもあって、
ほとんど毎日のように、電話でいろいろなこと、その日の
阪神タイガースのことや、弟妹や子供たちと話すのとは違う話、
弟妹や子らが聞いてくれない話をも含んで、
故郷大坂の言葉でしゃべり合っている・・・・
・・徳岡君は、『 長寿になったといっても、百歳になったら
もう何をする能力もなくなる。百歳以前をどう生きるかだよ、
これからの課題は。それを書こうと思う 』と、
新聞記者生活のさまざまな記憶の中からエピソードを択んで、
締めに、問題提起や提言を置きたいと言う。
私は、それとは何の脈絡もなく、「 『百歳以前』の身辺雑記 」
として、90歳を超えた今現在の、環境、生活、思いなどを書いてみたい。
・・・こうして本書を編むスタートが切られた。 」(~p10)
土井氏の文を、もう少し長く引用させてください。
「 もちろん、二人の電話の会話は、執筆作業ばかりではない。
時事問題の話もするし、天下国家も論ずるし、
お互いの家族のことを話すこともあるし、
また共通の友人の消息についての噂話もする。
それにも増して、91年の思い出話は尽きない。
毎日のように電話していることは、
お互いのストレス解消にもなっているような気がする。 」(p15)
このあとでした。土井氏は、阪神大震災に触れておられる
「 ・・・オンリイ・イエスタデイ(つい昨日)のことのように
思えるのに実はもう26年も経っているのが信じられない思いなのだが、
あの大震災の後、友人を神戸西灘の避難所に訪ね、
連れだって神戸三宮駅前へ出たとき、彼と交わした会話を思い出した。
三宮駅の瓦礫の山を見て呆然としていたときだった。
友人が、ポツリと言った。
『 なんでもあり、やったなあ 』
『 エッ? 』
『 いや、なあ、考えてみれば、オレたちの人生、
なんでもありやったなあ、と思って。
子供のときの阪神風水害、六甲からの鉄砲水に家ごと押し流されて。
次は戦争や、ここらへん見渡す限りの焼野原や 』
『 そうやなあ、さっきから見たことのある風景やなあと
思ってたんやが、空襲のあとの瓦礫の山と一緒やなあ 』
『 それで、今度はこの地震や。ホンマに
なんでもありの人生、やったなあオレたち 』
『 そういえば、オレは戦後のジェーン台風に大阪の焼跡に建てた
急造のバラックで出遭うて屋根飛ばされたこともあったなあ 』
・・・・・その後、私が直接体験したわけではなかったが、
東北の大地震という大天災が起り、その際の原発事故という人災をも
日本は経験した。・・更に感染症ニューコロナの蔓延という百年に一回
あるかないかの疫病災害にまで見舞われ、まだどうなるか分からない
さ中にいる。この本を作ることを意識の中心に置いて、
『 百年以前 』を生きてゆこうと決めている。 」(~p17)
食べ物にまるわるエッセイというのは、
徳岡孝夫著「舌づくし」(文藝春秋・2001年)
かもしれませんね。
他の本なら知らないのですが、
この本ならば本棚にあります。
ということで今日のブログは、
この本のあとがきを紹介することにします。