和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あれもよい、これもよい。

2021-06-03 | 本棚並べ
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」(2004年)の
あとがきに、

「・・現場に即した編集の教科書がほしい。
現役のときからずっと思っていたことである。
企画を発想する。原稿の書ける人を発掘する。
それらは簡単なようでじつはむずかしい。」(p241)

はい。この本は、万華鏡のように、角度をかえるたび、
さまざまな輝きを見せてくれるので、ある意味、鰻を
シロウトが素手でつかまえるような、触感は分るのに、
肝心の本物を捕まえられない。そんな感じがあります。

今日は、限定して第四章「企画の発想法」から引用。

「・・・多様化というと聞こえがよいが、
あれもよい、これもよい、という価値の
平準化・平均化が極度に進行している。・・
それは出版の仕事にも大きく影響している。」(p56)

はい。『あれもよい、これもよい』という発想と
企画の発想法とでは異なることを指摘してゆくのでした。

「いくらすばらしい企画でも、
実現しなければ単なる妄想で終わる。
妄想と企画は紙一重である。
妄想を実現してしまえばすばらしい企画になる。
紙一重の差は、天地の開きにもなるのである。」(p64)

「問題に挑戦してみよう、あるいはそれを
鮮やかに解いてやろうという気にさせねばならない。
企画を立てる場合の大事な前提である。」(p70)

うん。また引用ばかりになりましたが、
「企画の発想法」から、あと一箇所引用してオシマイ。

「企画は流れる川のようなもので、
動かしていかないと死んでしまう。
ひとつだけに固執してはいけない。
 ・・・・
テーマが自動展開していっていいのである。
自分の頭のなかでのブレーンストーミングなのである。
そこに編集会議が加わる。
そうして他人との異種格闘技になる。・・・

私たちはつねに何かを読んでいる。
新聞、雑誌、エッセイ、論文などなど、
読みながら感心したり、はっとしたりすることがあるだろう。
気になることもあるだろう。
それは企画の可能性を意味している。
気になった部分をふくらましたらどうだろうか。・・」(p72)

うん。第四章は、このあとも続くのですが、
わたしはもう満腹。


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2 コメント

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Unknown (kaminaribiko2)
2021-06-03 12:52:06
私もこの本を買いたくなりましたが、たぶん読みきれないと思いますから、和田浦海岸さんの記事で読んだつもりになることにします。この記事は歌人小高賢氏を再確認できた記事でした。
返信する
短歌を一句? (和田浦海岸)
2021-06-04 06:01:44
こんにちは。カミナリビコ2さん。

ここに小高賢自筆年譜があります。

1972年(昭和47)28歳。
友人の編集者に紹介され、赤羽商業定時制の先生で
あった馬場あき子さんを訪ねる。不思議に気があった
のだろうか、何となく年上の友人のような付き合いが
始まる。ご主人の岩田正さんともども、
旅なども一緒するようになった。
しかし、短歌にはまったく関心が
なく、つい、一句といってしまい、
まわりの顰蹙を買っていた。

1974年30歳結婚。
岩田・馬場夫婦に仲人まで頼んでしまった。

1978年34歳
前年暮れ頃、突如、「かりん」を創刊する
という話が飛び込んできた。・・・
創刊メンバーは最低50人ぐらいほしいから、
名前だけでも参加しろという。
「仲人は親も同然」か・・・
夫婦ともども創刊に参加した。
作歌などする気はまったくなかった。
歌人の事務能力は想像を絶するくらい低い。
・・事務局員として参加したつもりであった。
・・「かりん」が創刊されなければ、おそらく、
いや絶対に短歌とは無縁でいられたはずである。
・・・ペンネームをつけようということになった。
・・・連れ合いの旧姓小高を借用。
連れ合いは私の姓の鷲尾。・・・


はい。「短歌とは無縁で」というのに興味をもち、
今度小高歌集を何か一冊読んでみることにします。
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