昨年。原田種成の「漢文のすすめ」や「私の漢文講義」を読んで、もうすこし読んでみたいと思って、図書館で「漢字の常識」(三省堂)というのを貸りてきてもらって。
それをひらいているのですが、
これは漢字教育についての本でした。
たとえば、こんな箇所が印象に残ります。
「・・筆順が混乱している原因は、いったいどこにあるのであろうか。それは、戦後の小学校の国語教育の平仮名先習に根本がある。・・昭和22年発行の小学教科書(当時はまだ国定)から平仮名先習となったのである。だから、小学一年生のときに片仮名の書き方についてしっかり教えられることがない。そのために、前記の『ネ』や『ヲ』のような、我々には全く思いもよらない書き方をするようになっているのである。
しかし、片仮名は、もともと、漢字の一部からできているものであり、いわば漢字の部分品である。我が国の文字から漢字を全廃することができるならば、片仮名を学習する必要はないかもしれぬが、漢字は日本人の生活から切り離すことができないものである以上は、漢字を正しく使いこなすことを早くから身につける必要がある。それには漢字の部分品である片仮名を、小学一年生から先習すべきである。文字の習い初めの基礎である小学一年生のときに、片仮名の書き方をしっかり身につけさせておけば、漢字の筆順も原理は同一なのであるから、格別に苦労せずとも、ごく自然に書く手に習慣がつくようになるものである。そもそも当用漢字というものは、将来は漢字を全廃する意図によって制定されたものであった。だから、漢字全廃後には平仮名が主となるという考えから平仮名先習となったものと思われる。・・・
数学者の遠山啓氏も
『いまの小学校では片仮名はあまり真剣に教えられていないらしい。昔は片仮名を先に教えて平仮名は後だった。戦後はそれが逆になった。なぜそうなったかをその道の専門家にたずねてもはっきりしない。直線的な片仮名のほうが書くにも読むにもとっつきやすいはずだのに、どうして難しい曲線的な平仮名から始めるようになったのか、その理由がわからない。片仮名先習はしかるべき理由があって長いあいだ続けられたと思うが、どうして大した論争も経ずに変わってしまったのか。・・・片仮名は仮名だけの問題ではなく、漢字の部分品としての重要な意味を持っている。『イ』『エ』『シ』『ネ』『ロ』などは扁だし、『ウ』『サ』は冠である。もういちど『片仮名先習』を検討してみたらどうだろうか』(昭和50年8月30日、朝日新聞「日記から」)
と、筆者と同じ意見を述べている。」(p61~63)
そういえば、と思いあたるのは、80年代に「丸文字」というのがニュースで取り上げられて何やら社会現象として語られておりました。その広範囲性というのも、もとを正せば、平仮名先習の当然の帰結だったという推測が成り立ちそうです。
さて、とんと門外漢の私ですが、今の小学校では、どうなっているのでしょうか?
ご存知の方が、このブログを読むようなことがあれば、お聞かせください。
まあ、それはそれとして、
朗読・暗誦について、原田氏の引用される箇所が、興味深く思いました。
「良い文章というものは、読んで調子が良いものであり、そういう良い文章に、伝統的な日本の文章のリズムがある。日本文の調子を身につけるためには、朗読・暗誦をすることが最良の方法である。」として何人かの意見を引用しておりました。
田辺聖子氏と島田虔次氏と松谷さやか氏と鹿住釈子氏と・・・並べておりました。
それをひらいているのですが、
これは漢字教育についての本でした。
たとえば、こんな箇所が印象に残ります。
「・・筆順が混乱している原因は、いったいどこにあるのであろうか。それは、戦後の小学校の国語教育の平仮名先習に根本がある。・・昭和22年発行の小学教科書(当時はまだ国定)から平仮名先習となったのである。だから、小学一年生のときに片仮名の書き方についてしっかり教えられることがない。そのために、前記の『ネ』や『ヲ』のような、我々には全く思いもよらない書き方をするようになっているのである。
しかし、片仮名は、もともと、漢字の一部からできているものであり、いわば漢字の部分品である。我が国の文字から漢字を全廃することができるならば、片仮名を学習する必要はないかもしれぬが、漢字は日本人の生活から切り離すことができないものである以上は、漢字を正しく使いこなすことを早くから身につける必要がある。それには漢字の部分品である片仮名を、小学一年生から先習すべきである。文字の習い初めの基礎である小学一年生のときに、片仮名の書き方をしっかり身につけさせておけば、漢字の筆順も原理は同一なのであるから、格別に苦労せずとも、ごく自然に書く手に習慣がつくようになるものである。そもそも当用漢字というものは、将来は漢字を全廃する意図によって制定されたものであった。だから、漢字全廃後には平仮名が主となるという考えから平仮名先習となったものと思われる。・・・
数学者の遠山啓氏も
『いまの小学校では片仮名はあまり真剣に教えられていないらしい。昔は片仮名を先に教えて平仮名は後だった。戦後はそれが逆になった。なぜそうなったかをその道の専門家にたずねてもはっきりしない。直線的な片仮名のほうが書くにも読むにもとっつきやすいはずだのに、どうして難しい曲線的な平仮名から始めるようになったのか、その理由がわからない。片仮名先習はしかるべき理由があって長いあいだ続けられたと思うが、どうして大した論争も経ずに変わってしまったのか。・・・片仮名は仮名だけの問題ではなく、漢字の部分品としての重要な意味を持っている。『イ』『エ』『シ』『ネ』『ロ』などは扁だし、『ウ』『サ』は冠である。もういちど『片仮名先習』を検討してみたらどうだろうか』(昭和50年8月30日、朝日新聞「日記から」)
と、筆者と同じ意見を述べている。」(p61~63)
そういえば、と思いあたるのは、80年代に「丸文字」というのがニュースで取り上げられて何やら社会現象として語られておりました。その広範囲性というのも、もとを正せば、平仮名先習の当然の帰結だったという推測が成り立ちそうです。
さて、とんと門外漢の私ですが、今の小学校では、どうなっているのでしょうか?
ご存知の方が、このブログを読むようなことがあれば、お聞かせください。
まあ、それはそれとして、
朗読・暗誦について、原田氏の引用される箇所が、興味深く思いました。
「良い文章というものは、読んで調子が良いものであり、そういう良い文章に、伝統的な日本の文章のリズムがある。日本文の調子を身につけるためには、朗読・暗誦をすることが最良の方法である。」として何人かの意見を引用しておりました。
田辺聖子氏と島田虔次氏と松谷さやか氏と鹿住釈子氏と・・・並べておりました。
じつは、わたしは65歳を超えております。
この年になると「今となっては無理」と
いう言葉は禁句となります(笑)。
今だから出来ることがある。
という発想をするようにしております。
方丈記の原文というか写本なのでしょうが、
カタカナで書かれております。
くずし字のひらがなよりも、
スラスラ読める。
もし私が幼児に書き方を教える、
そんな機会にめぐまれたなら、
と思うことがあります(笑)。
念のためにもう一度調べてみました。
8月30日の夕刊の遠山啓氏のコラム「日記から」には、「数の魔術」というタイトルで、五画星の図形のもつ神秘的な力が東洋(安倍晴明)と西洋(ゲーテのファウスト)に共通してみられる面白さを指摘しているものでした。
貴重な記述だったので、レポート作成のために引用させていただきました。
こちらこそ、ありがとうございました。
ちなみに、8月30日には掲載は、あったのでしょうか? ちょっと、気になるところです。