多田道太郎氏の
司馬遼太郎追悼文が印象に残っておりました。
その中に、テグスの話が出てきておりました。
そこを引用。
「それから、釣り糸のことをテグスと言いますが、
これも、福建省でクスノキに大きなイモムシがつくんです。
ヤママユ、天蚕という蛾の幼虫ですが、それが出す糸を
天蚕糸と言います。その福建省の音がテグスです。
・・・
ところで、このテグスという糸の漁業利用法は
中国には存在しないんです。西洋にもなかった。
なぜなら、中国では漁民は中国人の中に入らないからです。
あるいは人間の中に入らないと言ってもいいかもしれない。
海というのは遠いところのもの、価値の非常に低いものなんです。
我々は漁民の末裔みたいなところがあります。
・・・つまり、日本は海の民で、しかもある程度の
ある質の現代文明を持っている、世界でも珍しい地域なんですが、
そのため、中国で生薬を梱包するひもに使われていたテグスを
漁業に使ったわけです。中国の文化が日本に来て、
不思議な変化をとげた。このように文化を変えるところに
土着のもののよさがある。これは文化変容の学と呼んで
いいものと思いますが、歴史学にも地理学にも関係するものです。
ところが、歴史学者は地理のことをやらず、地理学者は
歴史のことをやらないという、ヨーロッパの学問の伝統を
明治以後受け継いだために、どちらも大変片寄った
学問になってしまいました。
明治末年、いっとき、10年ぐらい、歴史地理学という
学問ができて脚光を浴びたことがあります。
それをやったのは吉田東伍という人ですが、
司馬遼太郎はそれ以来です。
その意味で単なる文人とはいえない。文人学者ともいうべき、
不思議な系譜の仕事をここ20年はど、『街道をゆく』で
続けてこられたと思います。」
うん。引用が長すぎましたか?
ここに、テグスが登場していたのでした。
最近、河出書房新社の道の手帖の一冊「宮本常一」を
古本で購入してパラパラとひらいておりました。
そこに、特別対談「旅する民俗学者」と題して
佐野眞一氏と谷川健一氏が対談をしておりました。
そこから引用。
谷川】 そうですね。筑摩書房の『海を開いた人々』を
『風土記日本』をやるちょっと前に手に入れまして、
小学生向けに書いた本ですが、それを半日
抜書きしたんですが、実に楽しかったですね。
夏に海のそよ風が吹いてくるような楽しさがありました。
釣り糸のテグス、あれは中国から来ているんですね。
中国から送ってきた薬品の箱を巻くひもをテグスに使って、
あれが透明なものだから魚には見えなくて、
それで釣れ高が増えたということですが、
あの見方というのは本当に唯物的な見方だと思います。
そういう発想がすぐ社会に結びつけたがるコミュニズムの
人にはないんですよね。あれは本当に感動しました。
ここに、
「夏に海のそよ風が吹いてくるような楽しさ」
とあります。さっそく古本の文庫で「海を開いた人々」を
注文することにします(笑)。
それまで、関連しそうな蔵書をひっくり返すことに(笑)。
たとえば山野博史著「発掘司馬遼太郎」(文藝春秋)は
楽しく読んだ覚えがありましたので、あらためてひらく。
そのあとがきから引用。
「人生のほぼ半分にあたる文筆活動において、
仁王立ちをつらぬいていたかに見える司馬遼太郎ほど、
ひとりぼっちの悲哀をかみしめていた文士も珍しいのでは
ないか。だとすれば、その執筆活動を奥深いところで
支えていたものはなんであったのか。
つかずはなれず、そこはかとなくよろこばしげな
つきあいを大切にしたひとびととの精神の往還を点綴する
ことに関心を集中してみると、司馬遼太郎の重要な
一側面のあぶりだしに成功するのではないか。」
こうして海音寺潮五郎から田辺聖子さんまでの12章を
構成している「発掘司馬遼太郎」という本でした。
そこには宮本常一氏は残念登場してはおりませんでした。
もどってKAWADE道の手帖「宮本常一」をめくっていると
司馬遼太郎の「『宮本学』と私」と題した文があるのでした。
そのエッセイのはじまりは
「私事からいうと、私自身、宮本学に親しんだのは、
よほど古いつもりでいる。ただし、先生の文章を通してで、
面識を得たのは、先生の晩年になってからである。」
つぎには、こんな箇所
「昭和20年代のなかごろ、
日本共産党に山村工作という運動があって、
京都の学生がよく八瀬あたりの農村に出かけてゆく
のを見た。そのころ、『工作』にあたっている学生
たちが、日本の農村について観念的にしか知らず、
その概念も、中国共産党が農村をとらえきった
先例をごく無造作にふまえているだけのように
思われて、おどろいたことがある。
――せめて、宮本常一先生の文章でも読んだほうが
いいのではないか。と知りあいの学生に
言ってみたことがあるが、むろん、一笑に付された。」
この司馬さんのエッセイの最後も引用。
「人の世には、まず住民がいた。
つまり生産の中心とした人間の暮らしが最初にあって、
さまざまな形態の国家はあとからきた。
忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。
国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは
変らなかった。そのしんこそ
『日本』というものであったろう。
そのレベルの『日本』だけが、
世界中のどの一角にいるひとびととも、
じかに心を結びうるものであった。
そのしんが半ば以上ほろび、
あたらしいしんが
まだ芽生えぬままに、
日本社会という人間の棲む箱は、
こんにち混乱をつづけている。
しんは半ば亡んだが、
しかし宮本学は私どもに遺された。
それだけでも望外な幸運として、
私どもはよろこばねばならない。」
佐野眞一著「旅する巨人」(文藝春秋)にも
司馬遼太郎が登場する場面がありました。
「宮本と司馬は、
佐渡での宮本の常宿となっていた小木の称光寺で、
住職の林道明をまじえ、お互いがファンという
一遍について語り明かすような仲だった。
司馬はたずねてきた村崎(修二)に
今西さんと宮本さんか、
キミもすごい人にみこまれたもんやなあ、
日本の本当の学問はそのお二人の間にしか
あらへんのやで、といったあと・・・
こんな話をはじめた。
小説家というもんは細部にこだわるもんや、
大村益次郎が豆腐好きだったということは
誰でも知っとる。けれど、益次郎が
どんな着物を着て、どんなハシを使って
豆腐を食べていたかは誰も知らん。
とはいっても、いいかげんに書くことはできん。
それを全部知っとるのが、宮本常一という人や。
あの人はホンマに恐ろしい人や・・・。
宮本が戦前歩いてきた世界は、
着物やハシなどの日常品は幕末とあまり変わらない
世界だった。司馬が宮本常一という人は
ホンマに恐ろしいといった意味は、
そのことを指していた。」(p342~343)
ハイ。
「夏に海のそよ風が吹いてくるような」
そんな、今年の夏の読書が出来ますように(笑)。
司馬遼太郎追悼文が印象に残っておりました。
その中に、テグスの話が出てきておりました。
そこを引用。
「それから、釣り糸のことをテグスと言いますが、
これも、福建省でクスノキに大きなイモムシがつくんです。
ヤママユ、天蚕という蛾の幼虫ですが、それが出す糸を
天蚕糸と言います。その福建省の音がテグスです。
・・・
ところで、このテグスという糸の漁業利用法は
中国には存在しないんです。西洋にもなかった。
なぜなら、中国では漁民は中国人の中に入らないからです。
あるいは人間の中に入らないと言ってもいいかもしれない。
海というのは遠いところのもの、価値の非常に低いものなんです。
我々は漁民の末裔みたいなところがあります。
・・・つまり、日本は海の民で、しかもある程度の
ある質の現代文明を持っている、世界でも珍しい地域なんですが、
そのため、中国で生薬を梱包するひもに使われていたテグスを
漁業に使ったわけです。中国の文化が日本に来て、
不思議な変化をとげた。このように文化を変えるところに
土着のもののよさがある。これは文化変容の学と呼んで
いいものと思いますが、歴史学にも地理学にも関係するものです。
ところが、歴史学者は地理のことをやらず、地理学者は
歴史のことをやらないという、ヨーロッパの学問の伝統を
明治以後受け継いだために、どちらも大変片寄った
学問になってしまいました。
明治末年、いっとき、10年ぐらい、歴史地理学という
学問ができて脚光を浴びたことがあります。
それをやったのは吉田東伍という人ですが、
司馬遼太郎はそれ以来です。
その意味で単なる文人とはいえない。文人学者ともいうべき、
不思議な系譜の仕事をここ20年はど、『街道をゆく』で
続けてこられたと思います。」
うん。引用が長すぎましたか?
ここに、テグスが登場していたのでした。
最近、河出書房新社の道の手帖の一冊「宮本常一」を
古本で購入してパラパラとひらいておりました。
そこに、特別対談「旅する民俗学者」と題して
佐野眞一氏と谷川健一氏が対談をしておりました。
そこから引用。
谷川】 そうですね。筑摩書房の『海を開いた人々』を
『風土記日本』をやるちょっと前に手に入れまして、
小学生向けに書いた本ですが、それを半日
抜書きしたんですが、実に楽しかったですね。
夏に海のそよ風が吹いてくるような楽しさがありました。
釣り糸のテグス、あれは中国から来ているんですね。
中国から送ってきた薬品の箱を巻くひもをテグスに使って、
あれが透明なものだから魚には見えなくて、
それで釣れ高が増えたということですが、
あの見方というのは本当に唯物的な見方だと思います。
そういう発想がすぐ社会に結びつけたがるコミュニズムの
人にはないんですよね。あれは本当に感動しました。
ここに、
「夏に海のそよ風が吹いてくるような楽しさ」
とあります。さっそく古本の文庫で「海を開いた人々」を
注文することにします(笑)。
それまで、関連しそうな蔵書をひっくり返すことに(笑)。
たとえば山野博史著「発掘司馬遼太郎」(文藝春秋)は
楽しく読んだ覚えがありましたので、あらためてひらく。
そのあとがきから引用。
「人生のほぼ半分にあたる文筆活動において、
仁王立ちをつらぬいていたかに見える司馬遼太郎ほど、
ひとりぼっちの悲哀をかみしめていた文士も珍しいのでは
ないか。だとすれば、その執筆活動を奥深いところで
支えていたものはなんであったのか。
つかずはなれず、そこはかとなくよろこばしげな
つきあいを大切にしたひとびととの精神の往還を点綴する
ことに関心を集中してみると、司馬遼太郎の重要な
一側面のあぶりだしに成功するのではないか。」
こうして海音寺潮五郎から田辺聖子さんまでの12章を
構成している「発掘司馬遼太郎」という本でした。
そこには宮本常一氏は残念登場してはおりませんでした。
もどってKAWADE道の手帖「宮本常一」をめくっていると
司馬遼太郎の「『宮本学』と私」と題した文があるのでした。
そのエッセイのはじまりは
「私事からいうと、私自身、宮本学に親しんだのは、
よほど古いつもりでいる。ただし、先生の文章を通してで、
面識を得たのは、先生の晩年になってからである。」
つぎには、こんな箇所
「昭和20年代のなかごろ、
日本共産党に山村工作という運動があって、
京都の学生がよく八瀬あたりの農村に出かけてゆく
のを見た。そのころ、『工作』にあたっている学生
たちが、日本の農村について観念的にしか知らず、
その概念も、中国共産党が農村をとらえきった
先例をごく無造作にふまえているだけのように
思われて、おどろいたことがある。
――せめて、宮本常一先生の文章でも読んだほうが
いいのではないか。と知りあいの学生に
言ってみたことがあるが、むろん、一笑に付された。」
この司馬さんのエッセイの最後も引用。
「人の世には、まず住民がいた。
つまり生産の中心とした人間の暮らしが最初にあって、
さまざまな形態の国家はあとからきた。
忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。
国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは
変らなかった。そのしんこそ
『日本』というものであったろう。
そのレベルの『日本』だけが、
世界中のどの一角にいるひとびととも、
じかに心を結びうるものであった。
そのしんが半ば以上ほろび、
あたらしいしんが
まだ芽生えぬままに、
日本社会という人間の棲む箱は、
こんにち混乱をつづけている。
しんは半ば亡んだが、
しかし宮本学は私どもに遺された。
それだけでも望外な幸運として、
私どもはよろこばねばならない。」
佐野眞一著「旅する巨人」(文藝春秋)にも
司馬遼太郎が登場する場面がありました。
「宮本と司馬は、
佐渡での宮本の常宿となっていた小木の称光寺で、
住職の林道明をまじえ、お互いがファンという
一遍について語り明かすような仲だった。
司馬はたずねてきた村崎(修二)に
今西さんと宮本さんか、
キミもすごい人にみこまれたもんやなあ、
日本の本当の学問はそのお二人の間にしか
あらへんのやで、といったあと・・・
こんな話をはじめた。
小説家というもんは細部にこだわるもんや、
大村益次郎が豆腐好きだったということは
誰でも知っとる。けれど、益次郎が
どんな着物を着て、どんなハシを使って
豆腐を食べていたかは誰も知らん。
とはいっても、いいかげんに書くことはできん。
それを全部知っとるのが、宮本常一という人や。
あの人はホンマに恐ろしい人や・・・。
宮本が戦前歩いてきた世界は、
着物やハシなどの日常品は幕末とあまり変わらない
世界だった。司馬が宮本常一という人は
ホンマに恐ろしいといった意味は、
そのことを指していた。」(p342~343)
ハイ。
「夏に海のそよ風が吹いてくるような」
そんな、今年の夏の読書が出来ますように(笑)。