柳田國男の「ことわざの話」に、
「諺は言語といふものが出来てまもない頃から、
もうそろそろと始まつた古い技術であります。
そうして人間に『おしゃべり』といふものが
ある限り、どんなに形を変へても、続いて
行かなければならぬ技術であります。
・・・・・
演説や講演に演題といふものがあり、
詩でも小説でも皆似つかはしい題をつけて
ゐるのも、多くは以前に使つてゐた
諺の代りであります。」
この文章の最後を引用してみます。
こう書かれておりました。
「・・・しかし
苦労をする人の心を慰め、
沈んでゐる者に元気をつけ、
怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、
または退屈する者を笑はせる方法としては、
かつてわれわれの諺がしてゐただけの為事を、
代つてするものは他にないのであります。
軽口が粗末になつて、
日本の笑ひはそれこそ下品になりました。
それでも若い人たちは笑はずにはをられぬゆゑに、
今は実につまらないことで笑つてゐます。
かういふ人が少しも笑はずにゐられるやうになるか、
または別に新しい方法が見つかるまでは、
やはり諺のなるたけきれいなのを、
考へ出して行くより外はありません。
中昔のおどけ者が教へてくれたやうに、
自分たちのしてゐることの中にも、
まだ気のつかなかつたをかしなことがあります。
それをたとへにして話し合つて見ることは、
世間の人から笑はれぬ用心にもなり、
同時にまた日本の笑ひの改良になるかも知れません。
ただその前に諸君はまづ、
諺の善し悪しといふことを知らなければならぬのであります。」
ここに、
「苦労をする人の心を慰め、
沈んでゐる者に元気をつけ、
怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、
または退屈する者を笑はせる方法としては、
かつてわれわれの諺がしてゐただけの為事を、
代つてするものは他にないのであります。」
とある箇所を読んでいたら、
あれ、これ古今和歌集の「仮名序」の箇所
が思い浮かびます。
「力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女のなかをもやはらげ、
猛(たけ)き武士(もののふ)の
心をもなぐさむるは、歌なり。」
諺の善し悪しというのを知るには、
いそがばまわれで、仮名序まで
守備範囲に加えてみましょうか(笑)。
「花に鳴く鶯、
水に住むかはづの声を聞けば、
生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。」
「諺は言語といふものが出来てまもない頃から、
もうそろそろと始まつた古い技術であります。
そうして人間に『おしゃべり』といふものが
ある限り、どんなに形を変へても、続いて
行かなければならぬ技術であります。
・・・・・
演説や講演に演題といふものがあり、
詩でも小説でも皆似つかはしい題をつけて
ゐるのも、多くは以前に使つてゐた
諺の代りであります。」
この文章の最後を引用してみます。
こう書かれておりました。
「・・・しかし
苦労をする人の心を慰め、
沈んでゐる者に元気をつけ、
怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、
または退屈する者を笑はせる方法としては、
かつてわれわれの諺がしてゐただけの為事を、
代つてするものは他にないのであります。
軽口が粗末になつて、
日本の笑ひはそれこそ下品になりました。
それでも若い人たちは笑はずにはをられぬゆゑに、
今は実につまらないことで笑つてゐます。
かういふ人が少しも笑はずにゐられるやうになるか、
または別に新しい方法が見つかるまでは、
やはり諺のなるたけきれいなのを、
考へ出して行くより外はありません。
中昔のおどけ者が教へてくれたやうに、
自分たちのしてゐることの中にも、
まだ気のつかなかつたをかしなことがあります。
それをたとへにして話し合つて見ることは、
世間の人から笑はれぬ用心にもなり、
同時にまた日本の笑ひの改良になるかも知れません。
ただその前に諸君はまづ、
諺の善し悪しといふことを知らなければならぬのであります。」
ここに、
「苦労をする人の心を慰め、
沈んでゐる者に元気をつけ、
怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、
または退屈する者を笑はせる方法としては、
かつてわれわれの諺がしてゐただけの為事を、
代つてするものは他にないのであります。」
とある箇所を読んでいたら、
あれ、これ古今和歌集の「仮名序」の箇所
が思い浮かびます。
「力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女のなかをもやはらげ、
猛(たけ)き武士(もののふ)の
心をもなぐさむるは、歌なり。」
諺の善し悪しというのを知るには、
いそがばまわれで、仮名序まで
守備範囲に加えてみましょうか(笑)。
「花に鳴く鶯、
水に住むかはづの声を聞けば、
生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。」