和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

書かなくてもかまいません。

2023-03-10 | 前書・後書。
大村はまが、教室で授業の終りに語った言葉を、
中学生の苅谷夏子が忘れずに残してくれてます。

「 はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、
  書きたかったら書いてみればいいでしょうが、
  書かなくてもかまいません。
  構成を考えたメモだけは、しっかり
  学習記録に入れておきなさい。    」

         ( p51 「教えることの復権」ちくま新書 )

『 書かなくてもかまいません 』の言葉が忘れがたい。
そのことと、関連づけて井上靖を取りあげたくなります。

函入り単行本の「井上靖全詩集」(新潮社・昭和54年)には、
詩集にある各詩の発表誌紙一覧があります。まずはそこから。

 詩集『北国』(昭和33年3月、東京創元社)。
 その最初の6篇は昭和23年に雑誌に掲載されておりました。
 詩は、「人生」「猟銃」「海辺」「北国」「愛情」「葡萄畠」。

 その次の11篇が昭和22年に雑誌掲載。さらに7篇が昭和21年・・。
 そんな感じで一冊の詩集がまとめられて、成り立っておりました。
 そこで、全詩集の最後に「『北国』あとがき 」が載っています。

( 単行本ではp454~461。新潮文庫ではp244~250どちらでも読めます )


今回。私が注目したいのは、このあとがき。
詩集の数式を解くための、謎解きの鍵が隠れているような手ごたえ。
ということで、『あとがき』を紹介してみます。

『北国』に掲載された詩について、以前をふりかえっておられます。

「それから、もう一度『婦人画報』へ『井上靖詩ノート』と題して
 二十篇ほどの作品を掲載したことがある。・・・」

このノートを、さらに井上氏は語っております。

「私はこんど改めてノートを読み返してみて、
 自分の作品が詩というより、詩を逃げないように
 閉じ込めてある小さな箱のような気がした。

 これらの文章を書かなかったら、とうにこれらの詩は、
 私の手許から飛び去って行方も知らなくなっていたに違いない。

 ・・・・そういう意味では、私にとっては、これらの文章は、
 詩というより、非常に便利調法な詩の保存器で・・覚え書きである。 」


うん。よく井上靖の詩は、散文詩に分類されているようなのですが、
 『 詩を逃げないように閉じ込めてある小さな箱のような 』
というイメージのほうが、私にはしっくりと理解できる気がします。

箱といえば、サン・テグジュペリの『星の王子さま』(内藤濯訳)の
この箇所が私には、思い浮かんできてしまいます。
大村はま先生なら『重ね読み』ということになるのでしょうか。

忙しいぼくが、ぼっちゃん(王子さま)に、
ヒツジを描いてとお願いされます。何回か
さっさと描いても許してくれず、さいごに、
『大ざっぱ』な絵を書き見せる場面でした。

「 『こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ』
  ぶっきらぼうにそういいましたが、見ると、ぼっちゃんの顔が、
  ぱっと明るくなったので、ぼくは、ひどくめんくらいました。 」


そうそう『詩を逃げないように閉じ込めてある小さな箱』を
井上靖氏はつくりあげていたのですが、同時に詩人に対する
イメージも「『北国』あとがき」に書いてくれておりました。

その箇所を引用しておかなければ

「 私は自分の周囲に何人かの尊敬している詩人を持っているが、
  尊敬しているのは、彼等が作った何篇かの、
  自分も理解できた秀れた少数の作品のためである。
  自分に理解できない、また自分に無縁な作品というものは、
  そうした尊敬している詩人の詩集の中にもたくさんある。  」


はい。この尊敬する詩人のなかに、竹中郁もはいっているのだろうなあ。
星の王子さまが、ヒツジの絵を描いてもらいながら描き直しを迫るような
そんな箇所も、あとがきにはありました。

「 詩の座談会に行って殆ど例外なく感ずることは、
  出席者の数だけの全く異なった言葉が、お互いに
  無関係に飛び交うていることである。

  自分の言葉も他人に依って理解されないし、
  他人の言葉も自分にはそのまま理解できない。
  お互いの言葉はそれぞれ相手には受け留められないで、
  各自のところへ戻って行く。 ・・・          」



私は思うのですが、『 井上靖詩ノート 』というのは、そして、
『 詩を逃げないように閉じ込めてある小さな箱 』というのは、
いったい何なのか?

降りそそぐような、疑問のなかで、
大村はま先生の言葉が聞こえます。


「 はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、
  書きたかったら書いてみればいいでしょうが、
  書かなくてもかまいません。
  構成を考えたメモだけは、しっかり学習記録に入れておきなさい。 」

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お汲みなさいと、玉のごとき水を。

2023-03-09 | 地域
詩は、分かったようで分からないところがありますよね。
わからないようで、いつか分かったりするかも知れない。

すぐ飽きっぽい私ですから、詩を読んでいても、
すぐ興味が他にうつります。けれども不思議に、
またその詩人を読んでみたいと思うこともある。

そんなときのために、安い古本で詩集があると、
まあ、とりあえず、買っておくことがあります。

こうして『井上靖全詩集』(新潮社・昭和54年)を買いました。
古本函入り400円。ありがたいことに月報のような冊子つきです。

この『井上靖全詩集』は、昭和58年に新潮文庫に入っています。
うん。詩集には文庫がよく似合う。手軽で、惜しげなく読める。
私がぐうぜん安く買えた、函入り全詩集は昭和55年二刷でした。

はい。函入り詩集に、はさまっていた冊子に4名の方々が書いて
おりました。その二番目に竹中郁の文がありました。
のちに新潮文庫になった『井上靖全詩集』には、
残念ながら、この冊子の文までは載っていない。

はい。400円分の引用をさせていただきます。
竹中郁『詩の塔』と題して文のはじまりも印象的です。

「井上靖さんが関西の水に馴れ親しんだ年月は、相当ながい。
 しかも、若い頃だった。吸収力の旺んな年ごろだった。

 井上さんの骨太な歴史小説、たとえば『天平の甍』とか
 『風濤』とかからは、伊豆山脈を朝夕みつづけてきた人の息吹をかんじる。

 それと呼応して書かれたかのように、その詩をみると、
 これは関西の水に浸ったからだと思えるふしがある。

 繊細な感情の揺れをさりげない抑揚のうちにすらりと出してみせてある。
 読者に向って、お汲みなさい、お汲みなさいと、玉のごとき水を向けてある。
 これは京阪の文化風土が古くから持ちつづけているテンペラメントだ。 」


はい。こうはじまっているのですが、
私には『京阪の文化風土が古くから持ちつづけている』という
テンペラメントからしてもう分からなくなる。
それは京阪の人たちにごく普通のことなのかなあ、と思ったり。

うん。このあとに『きりん』の話になったりするのですが、
エイヤア。ばっさりカットして、竹中さんの短文の最後の方
雑誌『きりん』への言及がふたたび出てきます。

「・・どうしても忘れられないのだ。わたくしと会うたびに、
 白石欣也や宗次恭子はどうしたでしょうねと、かれらの純粋無垢の貴さ、
 美しさにうたれた三十年前を呼び出すように問いかけられる。

 三十数年前の経験がよほど気に入っているのだ。
 この子供だった二人だけではなく、ほかにも心に喰い入った 
 小詩人たちはみな成人して、井上文学を読んでいるにちがいないが、
 このような関係は何と呼べばいいのだろう。・・・        」


はい。やはり全文を引用しなくちゃいけないと思いながら。
ここまで(笑)。そう400円分はここまで。

ほかにも書きたいことがあるけれど、
それは、次回のブログにいたします。
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神戸の詩人さん。

2023-03-07 | 道しるべ
思潮社の現代詩文庫「竹中郁詩集」。
そこに載る杉山平一「竹中郁の詩」から引用。

「・・その資質もさることながら、彼が生まれ育ち、
 そこを一歩も離れることのなかった海港神戸という
 都市を抜きにすることはできない。

 海外貿易を主として成り立ったこの都市は
 早くから西洋風物が根を下ろしていた。・・・・

 白砂青松の白く明るい須磨という土地柄も
 彼の詩の明るさを育てたのではあるまいか。・・・・

 ・・美術学校への入学を反対され、関西学院の英文科に進み、
 福原清、山村順らの友人と、『海港詩人倶楽部』をつくり
 詩誌『羅針』を発行。・・・・・  」( p147~148 )


うん。これぐらいで、つぎに年譜から戦後の箇所を引用しておきます。

1945年(昭和20) 41歳
   3月17日、神戸空襲によって生家・実家ともに焼尽す。
   6月5日、朝の空襲で自家も消亡、蔵書四千冊を失う。
   12月、神戸市須磨区離宮前町77番地の家を得て入居。
   この家が終生の住居となる。

1946年(昭和21) 42歳
   4月、神港新聞社に入社。はじめて月給をもらう。
   8月、第三次「四季」再刊され参加。

1947年(昭和22) 43歳
   10月、神港新聞退社。文筆生活に入る。

1948年(昭和23) 44歳
   2月、児童詩誌「きりん」を尾崎書房から創刊して
   監修及び児童詩の選評にあたる。これが後半生の主要な仕事となる。
   7月、第七詩集「動物磁気」を尾崎書房から刊行。

1950年(昭和25) 46歳
   5月、「全日本児童詩集」を共編して尾崎書房から刊行。
   この年から大阪市立児童文化会館で「子ども詩の会」が
   毎月一回開かれ、坂本遼とともに詩の指導をおこなう。
   これは昭和55年2月まで30年間つづく。

1952年(昭和27) 48歳
   10月、「全日本児童詩集」第二集を共編してむさし書房から刊行。
                      ( p135~136 )


はい。年譜から、昭和20年~昭和27年の箇所を引用しました。
もどって、杉山平一氏の文の最後の方を引用しておわります。


「彼は校歌や社歌をかき、また井上靖、足立巻一とともに
 児童詩雑誌『きりん』を発刊し・・・

 その終始かわらぬ向日的で平明な詩風が、必然的に、
 児童に生活を見る目をひらかせる運動へおもむかせたのだ。

 『きりん』には多くのすぐれた子供の詩が掲載され、
 全国の児童詩運動に大きな成果をあげたが、

 生活に結びついた純真な子供の詩心を育てることも、
 彼の詩活動そのものであった。・・・        」(p150)
 
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児童詩と、一流の画家。

2023-03-06 | 本棚並べ
詩を読みかえすことがあります。
読み返すたび違ったことを思う。
はい。そんなことありますよね。

「どの書物を読むといっても、学び初めのころは、
 片っぱしから文章の意味を理解しようとしないほうがよい。
 まずだいたいにざっと見て、他の書物を見、あれやこれやと読んでは、
 また以前読んだ書物に返りながら、何べんも読むうちには、
 始めにわからなかったことが、少しずつわかるようになってゆくものである。」

はい。これは本居宣長「うひ山ぶみ」(佐々木治綱訳)からの引用。
『始めにわからなかったこと』で今回思い浮かんだことがあります。

それを、題してみるならば『 児童詩と、一流の画家 』。
思いついたので、忘れないうちに書きこんでおかなければ。

『竹中郁全詩集』(角川書店・昭和58年)に
『竹内さんのこと』と題して井上靖さんが書いたなかに、
戦後の童詩雑誌『きりん』創刊の頃が語られていました。


「私たちは毎日のように・・集り・・・
 尾崎書房はふしぎな集会場であった。そこに居る、と誰も彼もが、
 
 やたらに贅沢な気分になり、贅沢な企画を樹てた。
 そして、それがまたふしぎに実現して行った。・・・・

 脇田和、吉原治良、須田剋太、村尾殉子、伊藤継郎、
 山崎隆夫、松岡寛一、小松益喜、山川勤次氏等、
 一流の画家たちがみな応援してくれた。

 こうした人たちもまた、多少狐に化かされていたのに違いないと思う。

 私たちが手を振ると、それにつられてふらふらと、
 私たちのところに引き寄せられて来るようなところがあった。

 安西冬衛、小野十三郎、杉山平一、坂本遼、
 こうした人たちも同じであった。 ・・・・        」(p709)


ここに、『一流の画家たち』とあるのですが、
私には、須田剋太さんの名前しかわからない。
分からないながら新聞記者だった井上さんが
『一流の画家』というのだからそうでしょう。

画家といえば、杉山平一の『竹中郁の詩』に
こういう箇所があったのでした。

「・・竹中郁は、歌う詩すなわち音楽的要素から
 全く離脱したところから出発している。歌わない詩にしても、
 一般ではなお、ことばのおもしろさで書かれるのに、

 竹中の場合は、全く新しいことばにより絵をかくという、
 きわめて視覚的要素の強い作品が主流をなしている。・・ 」

 ( p147 「竹中郁詩集」現代詩文庫・思潮社 )

この文には、こうもありました。

「 しかも、中学で画家小磯良平と同級となり、
  共に洋画に親しみ画家を志したりしたことが、
  彼をしてことばで絵を描くふうの詩を成さしめた
  大きな原因と見ることができよう。・・・     」(p148)


竹中郁氏にとって、絵は親しいどころじゃなかったらしい。

『 やたらに贅沢な気分になり、贅沢な企画を樹てた。
  そして、それがまたふしぎに実現して行った。・・  』

こう井上靖さんがいうのですが、
ああ、これかもと思い当たる本。

『 全日本児童詩集 1950 』(尾崎書房・1950年5月25日初版)。
この編集責任者は14名おりました。

 川端康成・林芙美子・与田準一・丸山薫・村野四郎・梅木三郎・阪本越郎
 久米井東・井上靖・安西冬衛・小野十三郎・竹中郁・坂本遼・足立巻一

『さしえ』の箇所には12名の名前があります。

 小磯良平・前田藤四郎・吉原治良・田川勤次・井上覚造・池島勘治郎
 川西英・沢野井信夫・須田剋太・津高和一・山崎隆夫・早川良雄


はい。私には、小磯良平と須田剋太の名前しかわからない。
『そおてい考案』として一人の名前・竹中郁がありました。


何よりもドキドキしたであろうことは、
子どもたちが書いた、児童詩のそばに
一流の画家が、『さしえ』を描いていること。
『それがまたふしぎに実現して行った』こと。




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傍らに・・幼い小学生が。

2023-03-05 | 詩歌
杉山平一『詩集 希望』( 編集工房ノア・2011年11月2日発行 )。

はい。ここから詩を2篇。

     つぶやき   杉山平一

   電車はすこし混んでいた
   立ったままで
   ふと窓の外に目を向けると
   虹が浮んでいた
   半円とはいえないカーブを描いて

   傍に立っていた幼い小学生が
   つぶやいた 低い声で
   『 はじめて 見た 』
   そうして もう一ぺんつぶやいた
   『 はじめて 見た 』
   ワーイッ
   ヤッター
   スゴーイ
   そんな声が嘘っぱちに見えるほど
   心の底からきこえる感動のいきづかいだった

   電車はまもなく鉄橋にさしかかる

              ( p36~37 )


 思い浮かんでくるのは、井上靖「『きりん』のこと」の
 あの場面でした。

「 ・・たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、
 感心したというより、何もかも初めからやり直さなければ
 ならないといったような思いにさせられていた。

 その・・少女の詩の持つ水にでも洗われたような
 埃というものの全くない美しさに参ってしまったのである。
 ・・・・

 『 いちょう 』を読むと、いちょうの葉の落ちている校舎で、
 滑り台を滑っている小学一年生の少女の姿が眼に浮んでくる。
 
 そしてその時の少女の気持が、手にとるようにはっきりと、
 こちらに伝わってくる。少女は淋しいと思っているのでも、
 悲しいと思っているのでもなく、うつくしいな、ただそれだけである。

 そして、いちょうの落ちている庭で、
 いちょうの落ちるのを眺めながら、
 滑り台を滑っているのである。    」


はい。それでは、詩『 いちょう 』を引用してみます。

      いちょう   京都府大枝小学校一年 山田いく子
 
     きれいな いちょう
     おおきなきに
     ついている
     かぜにふかれて
     おちていく
     うつくしいな
     わたしは それをみて
     すべりっこを
     すべりました


杉山平一の『詩集 希望』をひらいていたら、
「すべり台」の詩があったので、最後に引用。

      
       天女    杉山平一

   その日 ぼんやり
   広場を横切っていた

   そのとき とつぜん
   ドサッと女の子が落ちてきた
   すべり台から
  
   女の子は恥ずかしそうに私を見上げて
   微笑んでみせた

   きょうは何かよいことが
   ありそうだ 
                  ( p34~35 )
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もうおそい ということは。

2023-03-04 | 道しるべ
「大村はま国語教室」の資料篇4の、函の中には冊子が4冊。
中学校時代に、学校からのプリントを配布されているままに、
そのプリントを読んでいる気分になってきます。

はい。配布されたプリントを、おざなりに見ていた中学生でしたから、
今回もそんな感じでパラリ。『読書生活通信』という冊子を開きます。

『読書生活通信』No.1には日付があり「42.10.15」とあります。
一面の左上『指針』とあり、本居宣長の『うい山ぶみ』の言葉がある。
その引用は、佐々木治綱訳となっています。

うん。岩波文庫の本居宣長「うひ山ふみ・鈴屋答問録」は
短くって「うひ山ふみ」だけでも58ページほどですから、
短いので読んだことがありました。古典に触れた箇所など分からない。
それでも、短いし、易しそうな箇所を摘まみ読みしたことがあります。

そういうことで、ここはひとつ引用箇所を、原文にあたってみる。
だいたいの脈絡から、ここじゃないかなという箇所。
当時の本居宣長の謦咳に接しているような感じになります。
では引用。

「  初心のほどは、かたはしより文義を云々、 」

はい。この箇所は新書でいえば小見出しにあたるようです。
そのあとにこうつづきます。

「 文義の心得がたきところを、はじめより、
  一々に解せんとしては、とどこほりて、すまぬこともあれば、

  聞こえぬところは、まづそのままにて過すぞよき。

  殊に世に難き事にしたるふしぶしを、まずしらんとするは、
  いといとわろし、ただよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也。

  こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見過せば、
  すべてこまかなる意味もしられず、

  又おほく心得たがひの有て、いつまでも其誤りをえさとらざる事有也。」

 ( p39~40  岩波文庫 )


はい。大村はま先生は『読書生活通信』をはじめるにあたって、
本居宣長の『うい山ぶみ』を指針とし、掲げてあったのでした。
実際の通信は、佐々木治綱訳です。そちらも引用しておきます。

「どの書物を読むといっても、学び初めのころは、
 片っぱしから文章の意味を理解しようとしないほうがよい。

 まずだいたいにざっと見て、他の書物を見、あれやこれやと読んでは、
 また以前読んだ書物に返りながら、何べんも読むうちには、

 始めにわからなかったことが、少しずつわかるようになってゆくものである。
 
 これらの書物を何べんも読むうちには、その他の読むべき書物のことも、
 研究法についても、だんだん自分の考えができてくるものであるから、
 それからあとのことは、いちいちさとし教えるに及ばない。     」


はい。私は中学生となって、大村はま先生の国語教室に、
今は、はじめからやり直し通おうと思っているのでした。
ということで、思う浮ぶ詩を引用しておわることに。



       いま    杉山平一


    もうおそい ということは
    人生にはないのだ

    おくれて
    行列のうしろに立ったのに
    ふと 気がつくと
    うしろにもう行列が続いている

    終りはいつも はじまりである
    人生にあるのは
    いつも 今である
    今だ



そういえば、『うひ山ふみ』のはじめの方には
こんな箇所もありましたね。

「・・又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。
   又暇(いとま)のなき人も、思ひの外、
   いとま多き人よりも、功をなすもの也。

   されば才のともしきや、学ぶ事の晩(おそ)きや、
   暇(いとま)のなきやによりて、
   思ひくづをれて、止(やむ)ることなかれ。・・・  」

           ( p15 岩波文庫 )




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ペロッとした一枚の紙切れ。

2023-03-03 | 本棚並べ
『大村はま国語教室』の全集には、付録に資料篇全5巻がついています。

はい。この資料篇には、大村はま先生の、ガリ版刷り通信が、
別に活字印刷し直されることなくガリ版そのままに冊子となってます。
それは、生徒に配布されたままの同じ印刷物が、そのままに読めます。
国語教室通信あり。読書生活通信あり。さまざまありそうです。

とりあえず、読むわけでもなく(笑)、
パラパラとめくっていると、私に、
浮かぶのは梅棹忠夫のことでした。
はい。小山修三氏との話のなかで、

梅棹】 ・・・みな自分が書いたものを残してなかったわけです。
    自分でやらなければ、だれも残してくれない。
   
    わたしは中学校のときのものから残っている。
    ガリ版やけれど、中学校のときのもあります。

   『 そんなん、あたりまえやないか 』と思うんやけれど。


小山】  そう言われると忸怩(じくじ)たるものがある。・・

梅棹】  いつから残ってる?

小山】  それは民博に来て、しばらくたってからです。
     だけど手伝いに来た大学院生がまた捨てるんですよ、
     『 これは紙ですね 』って。じゃ、どんなものを
     残すのかと言うと、たとえば柳田國男全集とか。

梅棹】  まさに権威主義や。       ( p82 )


このすこし前でした。

梅棹】  アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】  その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
     重要な情報だったりするんですな。

梅棹】  だいたい図書館は内容とはちがう。
     わたしが情報ということを言い出したのは、
     それがある。情報とは中身の話や。・・・・

 ( p80~81 「梅棹忠夫語る」日経プレミアシリーズ新書・2010年 )


『情報とは中身の話や』『その一枚の紙が・・重要な情報だったりする』
はい。こうして語り合う梅棹忠夫氏なんですが、
それでは、大村はま先生のガリ版刷りの『情報の中身』には、
どのような重要な情報が沁みこまれているのか?

たとえば、教科書。
「教えることの復権」(ちくま新書)の第五章で
大学の先生・苅谷剛彦さんは、こういう切り口で迫ります。


「 普通の教師は、教科書を手がかりに教える。
  教科書を教える教師も少なくない。教科書とは、
  ほかの誰かが作りだしたカリキュラム(・・学習指導要領)の
  反映物だといえる。

  そういう教科書で教えるのではなく、
  教材を自分で作りだすという実践をするためには、
  どういう材料を使えば、生徒はどんな頭のはたらかせ方をするのかを、
  自覚的に考えざるを得ない・・・・

  教科書を使って教えるという方法に頼りすぎると、
  どのような具体的な教育目標が、どのような学習活動によって
  実現できるのかを考えるきっかけを失いやすい。

  ・・・実際には、教科書を使って学習活動を行なえば、
  その単元の目的が実現できるという保証はどこにもない。
  教科書はそれほど完全なものではない。・・・

  そこに、教科書に頼りすぎる授業の限界がある。・・」 (p177~178)


 これから、パラパラめくりはじめようとしている
「大村はま国語教室」資料篇では、教科書に安易に、
 倚りかからない情報のお宝が隠されているらしい。


はい。どんなお宝か? なんて聞かないで下さい(笑)
まだ、資料篇の各巻は函にはいったそのままです。

 『 こいつぁ箱だよ。あんたのほしいヒツジ、その中にいるよ 』
  ぶっきらぼうにそういいましたが、
  見ると、ぼっちゃんの顔が、ぱっと明るくなったので、
  ぼくは、ひどくめんくらいました。

    ( p16 「星の王子さま」内藤濯訳・岩波少年文庫 )
   


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『 容易ならないこと 』

2023-03-02 | 短文紹介
それは、竹中郁の短文「児童詩の指導」の最後でした。

「 いずれ、忘れっぽいのがあたりまえの子どもは、
  詩をつくるのを忘れてしまうだろう。

  十五六歳ともなればきっと忘れてしまう。
  それでもかまわない。

  子どものころに、感じる訓練と、
  それを述べる訓練とを経ただけで、
  それは十分ねうちがある。

  子どもよ、詩をかく子どもよ、すこやかなれ。    」


(   p185 「全日本児童詩集 1950」尾崎書房   )


はい。私は今年、大村はまを読もうと思っていたのですが、
いつのまにか、児童詩を指導する竹中郁を読んでいました。
その竹中郁さんが指摘されている言葉には、

『 十五六歳ともなればきっと忘れてしまう。それでもかわまわない。 』

とあったのでした。15~16歳ならば、戦後の中学校国語を教えはじめた、
大村はま先生へと、すんなりバトンがつながるような気がしてきました。

たとえば、大村はま先生は、『教師の仕事』という講演で
『 書く練習 』について語っている箇所がありました。


「 書く練習をするときは、『 書く練習をしなさい 』
  と言うようなことではとてもだめです。

  ほんとに書かせなくては、だめなのです。
  それも、書くこと、書きたいことが胸にない
  という状態では、書く練習はできません。
  書くことが心にない人は書き表わすわけにはいかないと思います。

  それから、書かないとしかられると思って書くことがありますが、
  そういうほんとうに書きたいということがわかってこない状態で
  書かせると、つまらないことをダラダラと書いたりします。

  それでは書くことの練習にはならないのですが、
  似て非なる練習のようなことをしたことが、
  練習をしたことになってしまったりします。・・・ 」

( p113 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

それでは、『書くことの練習』とはどうすればいいのか。
はい。それを大村はまの本に読もうとしているのですが・・・。

この講演で『 指示する言い方 』という箇所がありました。

先生に対しては、こう語っております。

「・・こういう場合、素人では言えないことを言いたいと思います。

  まず、『一生懸命なさい』とか、『書き慣れなさい』とか、
  そういう指示だけすることば、子どもに指図する、命令する
  ・・つまり、命令すればやるものと思ったりすることが、
  教師としての甘さで・・言ってもやらない人にやらせる
  ことが、こちらの技術なのですから。・・・      」(p112)

お母さんという箇所もあります。

「 『 書きなさい、しっかり 』と言うのは、
   お母さんでもだれでも言えますけれども、
 
   子どもを書きたい気持ちにさせるというのは、
   容易ならないことだと思います。・・・      」(p113)


こうして、『 容易ならないこと 』について
あらためて思い浮かぶ言葉がふたつ。

ひとつは、竹中郁さんが児童詩の指導で語られていたこの箇所。

『 きっと忘れてしまう。それでもかわまわない。 』

もうひとつ。中学三年の苅谷夏子さんが受けた大村はま先生の授業でした。
教室で『 書かなくてもかまいません 』と言われた夏子さんでした。
はい。ここはちょっと長く引用しておわります。


「一時間の授業が終わろうとする少し前、
 しんとした教室の空気を先生の声が破った。

『 はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、
  書きたかったら書いてみればいいでしょうが、
  書かなくてもかまいません。

  構成を考えたメモだけは、しっかり学習記録に入れておきなさい。
  さて、どうでしたか、

  《私の履歴書》を書こうとするときに、できごとを一から十まで
  すべて、あったとおりに、そのままに書くわけではなさそうでしょう。

  書いてある内容そのものが、その人をすっかり表現しているわけでない。
  選んだことを選んだ表現で書く、実際にあったことでも、書かないこともある、
  そこにこそ、その人らしさが出てくるんじゃありませんか・・・  』


この大村はま先生の言葉を、苅谷夏子さんは、
その時の状況を反芻して、こう書くのでした。

「あ、そうか、文章というのは、たった今まで私がしていたように、
 迷いや意図や思惑や思いやりや、そういう過程があって、
 その結果として選択されて表現されたものなのだ。

 はじめから唯一これしかない。という姿があったわけではなくて、
 迷った末に選び取られた結果だけが、見える形で残っているのだ。

 選ぶこと自体が大きな創造で、そこにこそその人らしさがある、
 そんな目で周りを眺めたことがなかった私は、文字通り
 目からうろこが落ちたように思った。とても興奮した。

 ひょっとしたら音楽だって、美術だって、
   そうか日常のことばのやりとりだって、
   みんなそうやって表現されたものなのか。・・・  」

はい。このまとめとして、生意気盛りの中学三年生の夏子さんが
感じたことを、現在の夏子さんが、改めて語ってしめくくります。
ここを今回は引用しておきたかったのでした。


「 この鮮やかな導入の手際を、私は忘れたことがない。

  文章を読むときには、作者の意図を考えながら、とか、
  行間の意味を探りながら、というような注意はごくあたりまえのものだ。

  それを知らなかったわけではないが、
  そう言われたからといって、なんの助けにもならなかった。

  あの一瞬まで、私は、いわば観客席に座ってできあがった
  映画をおとなしく見る幼児と同じであって、一方的な受容者だった。

  まあ、受容する楽しみもあるのだが、それでは創造の世界に
  ほんとうに迫ることはできない。でも、あの一瞬の転換で、
 『 私の創造 』が『 他者の創造 』と重なった。      」


もちろん授業で大村はま先生の言葉に触れた中学三年生の夏子さんは、
その瞬間、言葉にならなかったはずです。夏子さんはどうしていたか。

「 私はそのあたりでもう先生の声を聞かなくなっていた。
  ひとつの真実がすとーんと腹に収まった。
  それを感じて私はじっと固まってしまったように思う。  」


(  ~p52 「教えることの復権」ちくま新書・2003年   )




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忘れっぽいのがあたりまえ。

2023-03-01 | 道しるべ
足立巻一による、竹中郁の年譜の最後には

 昭和57年(1982)
   ・・・・・・・
   3月7日午前5時40分、病状急変して脳内出血のために死去。
   満77歳11か月。戒名、春光院詩仙郁道居士。
   3月9日、神戸市兵庫区北逆瀬川町1、能福寺で告別式を営み、
   4月23日、同寺竹中累代墓に葬られた。・・・

ちなみに、まとまったものとしては、
 昭和58年3月7日初版発行『竹中郁全詩集』角川書店。そして、
 平成16年(2004)6月25日『竹中郁詩集成』沖積舎が出版されております。

『竹中郁全詩集』は、監修が井上靖。編集は足立巻一・杉山平一。
『竹中郁詩集成』は、監修が杉山平一・安水稔和とあり
( 詩集成には、帯に「誕生百年記念出版」とあります )
どちらにも、杉山平一氏の名前がありました。

それでは、杉山平一氏は、竹中郁の詩をどのように理解していたのか?
思潮社の現代詩文庫1044「竹中郁詩集」に杉山平一氏の文があります。

「 竹中郁の詩は・・・一貫して、
  きわめて清新、明快、平明の独自の詩境を展開している。

  現代詩が、歌う詩から考える詩への道行きを示した中で、
  竹中郁は、歌う詩すなわち音楽的要素から全く離脱した
  ところから出発している。

  歌わない詩にしても、一般ではなお、
  ことばのおもしろさで書かれるのに、
  
  竹中の場合は、全く新しいことばにより絵をかくという、
  きわめて視覚的要素の強い作品が主流をなしている。・・ 」 
     

はい。杉山平一氏の『竹中郁の詩』はこうしてはじまっておりました。


万事、天邪鬼(あまのじゃく)な私は、とてもじゃないけれど、
全詩集とか詩集成とかを、読み進められるわけもなくて、
それでも今回読み直し、ひとつ気になる個所があります。

それは、竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社・1999年)の
最後にある、足立巻一「竹中先生について」のなかにありました。

「 先生は第八詩集を『そのほか』と題されました。
  子どもの詩を読むことが第一で、自分の詩は
  余分のことだという考えから名づけられたのです。 」(p163)

この直前に足立さんは、竹中さんの言葉を引用しております。

 『 自分みずからの詩作品を書いてゆけることも
   しあわせの一つにはちがいないが、

   日本のあちこちから集まってくる子どもの声・・・
   詩の数々を毎日読み、かつ選び出していく仕事は、
   他の何にもまして充実した時間だった 』


私がさがしたかったのは、この『充実した時間』を
語っているところの竹中郁さんの文でした。
詩ではないので全詩集や詩集成に探せない。
それでは、どこに。

はい。なにやら、推理の迷路めいてきましたけれど、
竹中郁さんの、『 児童詩の指導 父兄、先生へ 』
という2ページの文を、私は最後に引用したかった。

ということで引用をはじめます。

「こどもの詩雑誌『きりん』をだしはじめて、わたしは
 いろいろなことを、子どもから教えられた。

 ・・・先生が・・だと子どもは、すぐに
 詩とは何であるかを解し、せい一杯の作品をさしだす。・・・

 大人が親切と熱心とを示すと、子どもはたちどころに
 効き目をあらわして、ぐんぐんとすすむ。

 詩というものが、数学とか科学といったように
 問題を設けて、子どもの力をためすものでなく、

 子ども本人が丸うつしにでてくるものだから、その微妙な
 成長や停頓は、まるで手にとるように、よんでわかるのである。」


はい。私はこの2ページ文を引用したいために書いております。
もうすこし我慢して(笑)、引用をつづけさせてください。


「 直接、わたしが、詩をかく子どもに話をして・・・
  そのときの印象では、

  子どもは詩をかくことが、ほとんどみな好きらしいということであった。
  子どもは常からかきたいことをたくさん感じているのだ。

  しかし、かく方法がめんどうだったり、たいくつだったりして、
  かかないのだ。そう思った。だから、なるべく、

  楽な気もちで、あきのこない程度の方法を与えてやるがよい。
  それには詩なんだ。そう思った。そんな印象を得た。

  詩はめんどうな約束はないし、長くかく必要もないし、
  ほかの文学形式とくらべて、いちばん子どもに似合っている。

  だから、詩をかく子どもに出あって、話をすると、
  みなにこにこして楽しそうにわたしをみつめた。
  
  わたしが詩をかく人間だと知って警戒しないのである。
  仲間だと思うのである。わたしの方でも、子どもを
  仲間だと思って、くだけてたのしく話をした。

  ・・・・・・・・・・・

  いずれ、忘れっぽいのがあたりまえの子どもは、
  詩を作るのを忘れてしまうだろう。

  十五六歳にもなればきっと忘れてしまう。それでかまわない。

  子どものころに、感じる訓練と、それを述べる訓練
  とを経ただけで、それは十分ねうちがある。

  子どもよ、詩をかく子どもよ、すこやかなれ。   」


はい。この竹中氏の文が掲載された本は、
『 全日本児童詩集 1950 』(尾崎書房・1950年)でした。

  







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