思潮社の現代詩文庫「竹中郁詩集」。
そこに載る杉山平一「竹中郁の詩」から引用。
「・・その資質もさることながら、彼が生まれ育ち、
そこを一歩も離れることのなかった海港神戸という
都市を抜きにすることはできない。
海外貿易を主として成り立ったこの都市は
早くから西洋風物が根を下ろしていた。・・・・
白砂青松の白く明るい須磨という土地柄も
彼の詩の明るさを育てたのではあるまいか。・・・・
・・美術学校への入学を反対され、関西学院の英文科に進み、
福原清、山村順らの友人と、『海港詩人倶楽部』をつくり
詩誌『羅針』を発行。・・・・・ 」( p147~148 )
うん。これぐらいで、つぎに年譜から戦後の箇所を引用しておきます。
1945年(昭和20) 41歳
3月17日、神戸空襲によって生家・実家ともに焼尽す。
6月5日、朝の空襲で自家も消亡、蔵書四千冊を失う。
12月、神戸市須磨区離宮前町77番地の家を得て入居。
この家が終生の住居となる。
1946年(昭和21) 42歳
4月、神港新聞社に入社。はじめて月給をもらう。
8月、第三次「四季」再刊され参加。
1947年(昭和22) 43歳
10月、神港新聞退社。文筆生活に入る。
1948年(昭和23) 44歳
2月、児童詩誌「きりん」を尾崎書房から創刊して
監修及び児童詩の選評にあたる。これが後半生の主要な仕事となる。
7月、第七詩集「動物磁気」を尾崎書房から刊行。
1950年(昭和25) 46歳
5月、「全日本児童詩集」を共編して尾崎書房から刊行。
この年から大阪市立児童文化会館で「子ども詩の会」が
毎月一回開かれ、坂本遼とともに詩の指導をおこなう。
これは昭和55年2月まで30年間つづく。
1952年(昭和27) 48歳
10月、「全日本児童詩集」第二集を共編してむさし書房から刊行。
( p135~136 )
はい。年譜から、昭和20年~昭和27年の箇所を引用しました。
もどって、杉山平一氏の文の最後の方を引用しておわります。
「彼は校歌や社歌をかき、また井上靖、足立巻一とともに
児童詩雑誌『きりん』を発刊し・・・
その終始かわらぬ向日的で平明な詩風が、必然的に、
児童に生活を見る目をひらかせる運動へおもむかせたのだ。
『きりん』には多くのすぐれた子供の詩が掲載され、
全国の児童詩運動に大きな成果をあげたが、
生活に結びついた純真な子供の詩心を育てることも、
彼の詩活動そのものであった。・・・ 」(p150)