和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

神戸の詩人さん。

2023-03-07 | 道しるべ
思潮社の現代詩文庫「竹中郁詩集」。
そこに載る杉山平一「竹中郁の詩」から引用。

「・・その資質もさることながら、彼が生まれ育ち、
 そこを一歩も離れることのなかった海港神戸という
 都市を抜きにすることはできない。

 海外貿易を主として成り立ったこの都市は
 早くから西洋風物が根を下ろしていた。・・・・

 白砂青松の白く明るい須磨という土地柄も
 彼の詩の明るさを育てたのではあるまいか。・・・・

 ・・美術学校への入学を反対され、関西学院の英文科に進み、
 福原清、山村順らの友人と、『海港詩人倶楽部』をつくり
 詩誌『羅針』を発行。・・・・・  」( p147~148 )


うん。これぐらいで、つぎに年譜から戦後の箇所を引用しておきます。

1945年(昭和20) 41歳
   3月17日、神戸空襲によって生家・実家ともに焼尽す。
   6月5日、朝の空襲で自家も消亡、蔵書四千冊を失う。
   12月、神戸市須磨区離宮前町77番地の家を得て入居。
   この家が終生の住居となる。

1946年(昭和21) 42歳
   4月、神港新聞社に入社。はじめて月給をもらう。
   8月、第三次「四季」再刊され参加。

1947年(昭和22) 43歳
   10月、神港新聞退社。文筆生活に入る。

1948年(昭和23) 44歳
   2月、児童詩誌「きりん」を尾崎書房から創刊して
   監修及び児童詩の選評にあたる。これが後半生の主要な仕事となる。
   7月、第七詩集「動物磁気」を尾崎書房から刊行。

1950年(昭和25) 46歳
   5月、「全日本児童詩集」を共編して尾崎書房から刊行。
   この年から大阪市立児童文化会館で「子ども詩の会」が
   毎月一回開かれ、坂本遼とともに詩の指導をおこなう。
   これは昭和55年2月まで30年間つづく。

1952年(昭和27) 48歳
   10月、「全日本児童詩集」第二集を共編してむさし書房から刊行。
                      ( p135~136 )


はい。年譜から、昭和20年~昭和27年の箇所を引用しました。
もどって、杉山平一氏の文の最後の方を引用しておわります。


「彼は校歌や社歌をかき、また井上靖、足立巻一とともに
 児童詩雑誌『きりん』を発刊し・・・

 その終始かわらぬ向日的で平明な詩風が、必然的に、
 児童に生活を見る目をひらかせる運動へおもむかせたのだ。

 『きりん』には多くのすぐれた子供の詩が掲載され、
 全国の児童詩運動に大きな成果をあげたが、

 生活に結びついた純真な子供の詩心を育てることも、
 彼の詩活動そのものであった。・・・        」(p150)
 
コメント (4)
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