和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

迷いから離れる門出。

2023-09-05 | 思いつき
最近、NHKBSでは、再放送が花盛り。
うん。この機会に『街角ピアノ』をまとめて見たいと
8月15日からこまめに録画しはじめました。

私のことですから、録画し忘れることしばしば。
それでも聞き流す程度だった『街角ピアノ』に
登場する人たちの顔が見えるようになりました。

それはそうと、鴨長明『発心集』下巻の
現代語訳をひらきはじめました。

うん。下巻は音楽に関係する箇所が気になります。
そういえばと鴨長明『方丈記』(ちくま学芸文庫・浅見和彦校訂・訳)
の「仮の庵のありよう」(p162~163)から現代語訳を引用。

「いまあらたに、日野山の奥に隠れ住んでから後、
 東に三尺余りのひさしをさし出して、柴を折って、焚きくべる場所とする。
 南には竹のすのこを敷き、その西側に閼伽棚(あかだな)をつくり、
 北の方に寄せて障子を隔てた、阿弥陀の絵像を安置し、
 そばに普賢菩薩の絵像をかけ、
 南には『法華経』を置いている。
 東の端にはわらびのほどろを敷いて、夜の床とする。

 西南に竹のつり棚をもうけ、黒い皮籠を、三つ置いてある。
 すなわち、その中には和歌、管絃、『往生要集』などの書物をいれてある。

 そのかたわらに、琴、琵琶、それぞれ一張ずつたてかける。
 いわゆる折琴、継琵琶がこれである。

 仮の庵の様子は以上のとおりである。   」

以前に、詩人の茨木のり子の二階建ての家の写真集を見てました。
方丈記の鴨長明の、方丈の家のようすは、ちくま学芸文庫には、
p157に、「河合神社内に復元された方丈の庵」の写真と、その復元図。
p159に、「方丈の庵(復元)の内部」の写真。
p160に、「方丈の庵内部の復元イラスト」が掲載されております。

そうでした。楽器でした。「発心集」下巻にこんな箇所があります。

「大弐源資通(すけみち)は琵琶の名手である。
 源信明(のぶあきら)の弟子、大納言源経信(つねのぶ)の師である。

 この人は、全くもって通常の修行はしないで、
 ただ、毎日持仏堂に入り、琵琶の曲を弾いて回数を数えさせ、
 その演奏を極楽に廻向しこれを修行に振り替えたという。

 修行というものは行為と情熱とによるものなので、
 必ずしもこれらを無駄と思うべきではない。

 中でも数寄というのは、人との交際を好まず、
 我が身が落ちぶれることも嘆かず、
 花が咲いたり散ったりするのを哀れみ、
 月が出たり沈んだりするのを思うにつけ、常に心を澄まして、
 世間の濁りに染まらないのを専らにしているので、

 自然と無常の理が理解でき、
 名誉や利益への執着も尽きるのである。
 したがって数寄は迷いの世界から離れる
 門出となるに違いないと思います。・・・   」(p215・現代語訳)


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ドローン『飛鉢の法』

2023-09-03 | 思いつき
鴨長明著「新版発心集」上巻(角川ソフィア文庫)。
はい。私のことですからもちろん現代語訳の箇所をひらきます。

その現代語訳を読みすすめていると、何だか現代のことを
読んでいるような不思議な気分になってくるのであります。

ここは、ひとつ引用。
「浄蔵貴所(じょうぞうきそ)が鉢を飛ばすこと」(p350~352)

「浄蔵貴所と申し上げるのは・・・並ぶ者のない行者である。
 比叡山で飛鉢の法を修業して、鉢を飛ばしながら暮らしていた。

 ある日、空(から)の鉢だけが戻って来て、中に何も入っていない。
 不審に思っていると、これが三日間続いた。・・・

 四日目に、鉢の行く方角の山の峰に出て様子を見ていると、
 自分の鉢と思われるものが、京の方向から飛んで帰って来る。
 すると北方からまた別の鉢が来合せて、その中身を移しとって、
 元の方角に帰っていくのが見えた。 」

こうして犯人さがしにむかうのでした。

「・・老齢の痩せ衰えた僧がただ一人いて、肘掛けによりかかりながら
 読経している。『見るからにただ者でない。きっとこの人のしわざだろう』
 と思っていると、老僧は浄蔵を見て
『どこから、どのように来られた方か。
 普通では人がお見えになることなどございませんが』と言う。

『そのことでございます。私は比叡山に住んでおります修行者です。
 しかし生計を立てる方法がないので、この度、鉢を飛ばして、
 人から喜捨を受けて修行を続けておりましたが、
 昨日・今日と、大変不都合なことがございましたので、
 一言申上げようと、参上致しました』と言う。

 老僧は『私は何も知りません。でもとてもお気の毒なことです。
 調べてみましょう』と言って、ひそかに人を呼ぶ。

 すると庵の後ろから返事があり、出て来た人を見ると、
 十四、五歳くらいの美しい童子で、きちんと唐綾の華やかな装束を着ている。
 
 僧はこの童子に『こちらの方がおっしゃっていることはお前のしわざか。
 全くあってはならないことだ。これから後は、そのようなまねはしては 
 いけないよ』と諫めると、童子は赤面し、何も言わずに下がっていった。

 『こう申しておきましたので、今はもう同じようなことはしますまい』
 と言う。

 浄蔵は不思議に思いながら、帰ろうとする時、
 老僧は『はるばる山を分け入って来て下さり、
 きっとお疲れでしょう。ちょっとお待ち下さい。
 接待申上げたい』と言って、また人を呼ぶ・・・・

 浄蔵は『老僧の様子は、ただ者とは思えなかった。
 法華経を読誦する仙人の類だったのだろうか』などと語ったという。
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富士正晴、道元を読む。

2023-09-01 | 正法眼蔵
富士正晴評論集「贋・海賊の歌」(未来社・1967年)が届いている。
「小信」と題する詩からはじまっておりましたので、その詩のはじまりを引用。

「 数え五十三になった
  なってみれば さほど爺とも思えず
  思えぬところが爺になった証拠だろう
  他の爺ぶりを見て胸くそ悪くてかなわず
  他の青春を見て生臭くてかなわず
  二十にならぬ娘たちをながめて気心知れぬ思いを抱く
  爺ぶるのが厭で しかも爺ぶってるだろう
  やり残している仕事が目につく
  日暮れて道遠しか
  ばたついて 仕事はかどらず
  気づいて見れば ぼおっと物思いだ
  数え五十三になった
   ・・・・・・


はい。4ページある、これが最初のページの活字。
もとにもどって、目次を見ると『道元を読む』というのがある。
うん。富士正晴氏は道元をどう読むんだろうという興味がわく。
それじゃあと、そこから引用しておくことに。

「・・・わたしは道元の書いたものを読むことが好きであった
 ( 道元の思想を研究していたとか、禅に志したというような点は
   少しもなくて、道元の文章を享楽していたのだろう )。

  そして又、20年近く振りに今それを引っぱり出して読んで見ても  
  一種の爽快さと、一種の困惑と、一種の尊敬とを感じることは同じだ。
  ・・・・

  わたしは美しい自然や、美しい詩や、美しい音楽に
  接するような気持で道元の文章を読むだけだ。
  ひどく難解なために退屈するところがある・・・
  
  あちこちすっとばしながら目をさらしている内に、
  ひどく純粋な感動を受けるところに突き当ればわたしは幸福なわけである。

  ・・・道元の文章の中で、一つの言葉は使用されている内に
  実に多くの面に向って輝いて展開する。その輝きの交叉のなかから
  浮び上ってくるものを感じることが好きだからわたしは時々道元を
  読みたくなるのだろうと思う。思いはするが必ずしもその本を開かず、
  その輝きの交叉を頭に思い浮かべていい気持でいるだけで
  済ますことが多い・・・・・  」

こうして8ページの文は、後半をむかえます。

「 一つの言葉が次々に新しい面を現わしながら、
  展望を広く深く組み上げてゆく有様は、わたしに
  何か一つの透明で巨大な詩が現われてくるような感じを与える。

  その論法のスピードの緩急の良さが
  どうして現代日本の評論のやり方にこれが取り入れられて
  生かされないかいつも不思議である。・・・・・

  ・・道元の文章を読んでいても、
  その感動させるもの、刺激してくるものの質が詩に近くて、
  小説に実に程遠い感じがしてならない。・・・

  わたしは道元を読んで、実は道元の文章の中の
  詩を一、二、つまんでいるのにすぎないようだ。

  道元の散文に詩が含まれているほどには、
  彼の作った歌には詩がない。

  散文に於いて詩的であり、歌に於いてははなはだ散文的だった・・
  全く奇々怪々な奥知れぬ魅力を感じずにいられない。・・・ 」
                  ( p44~51 )


うん。道元を自分の言葉にしてしまう妙技に
思わず拍手したくなりました。

はい。富士正晴の雑文集が5冊揃いました。
読んでも読まなくてもとりあえず本棚並べ。
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