和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

巡礼。東京をゆく。

2023-11-10 | 本棚並べ
小沢信男著「東京骨灰紀行」(ちくま文庫・2012年)の
はじめの方をパラリとひらく。
はじまりは「ぶらり両国」。まず地図があり、
隅田川にかかる両国橋から、両国駅。両国国技館。下には回向院。

つぎは「新聞旧聞日本橋」。その地図は、両国橋をわたって
馬喰町・横山町。小伝馬町。

はい。この第一章と第二章をひらいてくると、
ああこれは、京都の古寺探訪の東京版なのかもと思えてきます。
残念、京都古寺の自然を期待したい向きには期待はずれですが、
『そうだ』とつづいて、両国、日本橋、千住、築地、谷中、多磨、新宿へ。

おっと、私は両国と日本橋を読み齧っただけでした。
私の経験だと、最後まで読んじゃうと、かえって黙っていたくなるのに、
パラパラ読みだと、妙に語りたくなるのでした(笑)。

では、私は行ったこともない回向院あたり。
「これぞ明暦3年(1657)陰暦1月に江戸市中を焼尽した大火の慰霊塔ではないか・・・18年後の延宝3年(1675)の追善建立でした。・・・ 」

「はやい話がそれまで隅田川に橋がなかった。
 千住大橋以外には。川は重要な軍事境界線だった。
 そのために火勢に追われた大群衆が、焼かれたくなければ溺れてしまった。
 回向院の過去帳には・・・・
 写しとりながらたじたじとなる。大火の焼死溺死者のみならず、
 この江戸城下で行き倒れ、牢にぶちこまれ、殺し殺され、
 ろくでもない死にざまの連中すべてを、いっそまとめてひきうけるぞ、
 という大慈悲心の碑なのだな。・・・」(~p12)

 「・・・この無辜の犠牲者を弔う回向院を、お詣りせずにおられようか。
 そこで本堂めがけて橋を架ける・・・万治2年(1659)末に落成、
 大橋となずけた。西は武蔵、東は下総、二つの国境いの大川を、
 歩いて渡れるありがたさよ。そこで通称両国橋。
 やがて正式名称となった。・・・」(p16)

こうして、はじまっておりましたが、
第一章の最後の方をめくれば、植草甚一。

「『植草氏』と台石に刻まれた墓。
 側面に『浄諦院甚宏博道居士』とあるのが、
 散歩と雑学の植草甚一の戒名です。
 昭和54年(1979)12月歿、享年71歳。
 葬儀のおりは多数の若者たちがここに参集し、 
 トランぺッターの日野皓正が葬送曲を吹き鳴らしたという。・・
 植草家は、日本橋小網町の老舗の木綿問屋でした。

 このお墓のななめうしろに『平田禿木之墓』がある。・・・
 平田家は、日本橋伊勢町の絵具染料問屋でした。

 日本橋なんだよなぁ。・・・
 鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春のこの町には、
 各種問屋が軒をつらねて日本中の物産を集散していた。

 明治となるや文明開化の舶来品もどっとここへ。
 かの丸善が日本橋なので、そこらの横丁にソロバンよりも
 横文字が達者なドラ息子たちが輩出するのも、むべなるかな。

 禿木コト喜一は山の手風の文化人になりすまし、
 甚一はコスモポリタンの足をニューヨークへものばしたあげくに、
 身まかればやっぱり両国へもどって眠っているなんて、ズルいよねぇ。
 そうだ、日本橋へ行こう。 」(p26)

こうして、つぎの『新聞旧聞日本橋』へ、つづくのでした。
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本をバラす、入刀記念日。

2023-11-09 | 思いつき
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)に

「六十代までは硬軟を問わず、本はベッドや電車、
 もしくは歩きながら路上で読むのがふつうだった。」(p40)

とあります。私に思いあたるのは、電車や、たとえば病院の待合室での
読書はごく普通だったのですが、ベッドは腕が疲れるし、
何しろ、すぐに寝てしまう睡眠導入剤みたいにしておりました。

「持ち歩きに不便な重い本はバラして読んだ。」(p40)

本はバラせば断然読みやすくなる。
それはそうでしょうが、今まで本をバラす習慣は、私には皆無で、
最近になって、古本が安いのと、画集などはバラした方が面白い。
その味を段々と知ってきたのでした(笑)。

それでも、単行本をバラすところまではいっていませんでした。
読んでると、新書がバラバラになってしまうことはありました。
でも、自分から本をバラす。

ということで、今回、松田哲夫著「縁もたけなわ」をバラす。
ケーキ入刀じゃなくって、本の内側のどにカッターを入れる。
またこれが、よい本なのに、売れなかったのか初版なのです。
はい。古本でも安いので、本としてまた買えばいいし気が楽。
各章の各段で、南伸坊さんの顔イラスト拝見がバラせば一望。

それはそれとして、バラしていたら秋野不矩さんの箇所がでてくる。
秋野不矩著『画文集 バウルの歌』は持っていて嬉しくなった本でした。
それについて書かれた箇所がある。

はい。本の入刀記念。目にはいった、この箇所を引用しておくことに。

「この『画文集 バウルの歌』は、路上観察学会メンバーが協力して作った。
 プロフィール写真の撮影を赤瀬川原平さん、装丁を南伸坊さんが担当した。

 藤森照信さんは、『週刊朝日』に思いのこもった書評を書いてくれた。
 ちょうどそのころ、藤森さんは建築家としての作品を作り始めていた。

 そして、藤森建築のたたずまいと不矩さんの絵とは、共通点があると思っていた。
 ちょうど、故郷の天竜に美術館を作る話があったので、路上の仲間たちは、
 半ば冗談で『藤森建築で美術館を』と話していた。不矩さんは、藤森さんの
 処女作『神長官守矢資料館』を見ていて、その造形力に深く感心し、
『この人に頼みたい』と宣言した。・・・・・・
 そして、98年に『秋野不矩美術館』は完成披露された。

 ところで『画文集 バウルの歌』の見本ができた時、
 それを担いで京都に向かった。不矩さんに手渡すと
『本になるなんて、夢のよう』と顔をほころばせた。そして、

 その夜、不矩さんは枕元にこの本を置いて寝たが、
 嬉しくてほとんど眠れなかったという。・・・・
 不矩さんにはこういう初々しさもあるんだと知って、なんだか楽しくなった。
 不矩さんは、99年、文化勲章を受章し、01年、亡くなった。
 享年93歳だった。  」(p216)


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どの町場でも村々でも。

2023-11-07 | 地域
小沢信男著「裸の大将一代記」(筑摩書房・2000年)の最初の方を読む。

吃りながら雄弁に、山下清が田舎にいって口上を述べる
その口上の箇所も(p51)、何だか寅さんが思い浮かんできました。

それはそうと、小沢氏の文が冴える箇所。

「かの≪白痴の天才≫清少年と、
 この馬橋や我孫子の商家の人々が見た山下清とは、
 おのずから別人のようだ。

 貼り絵の天才少年への有識者たちの驚きには、
 あんな白痴が、という前提が確固としてあるわけだろう。

 一方、人並み以下とこきおろしながら魚屋にせよ弁当屋も、
 それなりにこの世に生きて働いて、やがては
 所帯を持つだろうことを、むしろ当然の前提としている。

 どうやら世間が、二重構造になっていたのだろう。
 すくなくも昭和のこの時期あたりまでは。・・・
 この国には精神薄弱児教護の施設もなく、その構想さえも欠けていた。

 反面、ジモジモでは、落語の『鮑(あわび)のし』がいい例で、
 なりたい職人もしっかりしたかみさんさえあてがえば世渡りができた。
 どの町場でも村々でも。

 そのシモジモの余裕が、近代産業社会化に揺さぶられ、
 現代情報社会に均(なら)されて、
 のっぺらぼうに酷薄な世間となってゆく。

 その端境期のあたりを縫うように遍歴した、山下清は、
 いわば最後の証言者かもしれない。   」(p71~72)


うん。思い浮かぶのは、松田哲夫さんが、小沢信男さんを評して

「 小沢さんとつきあうようになってわかったのだが、
  この人は視点がいい、文章がいい・・・・     」
              (p156 松田哲夫著「縁もたけなわ」)

うん。山下清の足跡を丁寧にたどってゆくのですが、
ときどき、ハッとする視点と出会えるのでした。
といっても、まだ100ページも読んでいないのですけれど。
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『 南、こらないでいいからナ 』

2023-11-06 | 重ね読み
気になったので、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社・1994年)
をひらいてみる。はい。あとがきには500枚になってしまったことを

「 これだけの枚数を書き続けることができたのは、
  ワープロ(パソコン)を使うことができたからです。・・ 」(p347)

と、小沢信男さんが話したと同じ指摘がされておりました。
はい。梅棹忠夫さんのタイプライター打ちからはじまって、
いつのまにか、随分ありがたい世の中になっておりました。

はい。最初から読まずに、パラリとひらいた箇所に
赤瀬川原平さんとのことが、書かれているのでした。
赤瀬川さんの本を、松田さんとふたりで凝って作る。
その反省の言葉がでてくるのでした。

「・・いい本だと、今でもぼくは思っている。
 でも、凝りすぎたこともたしかだ。そういえば、
 赤瀬川さんの出した本のうちで、ぼくが客観的に
 見て名著だと思い、売れた本というのは・・・・

 ぼくが編集にかかわっていないものばかりだ。
 どうやら、二人の凝り性が複合すると、普通の
 読者を排除する方向に走っていきがちなのだろう。」(~p206)

このあとに、南伸坊くんが『ガロ』編集部にいた頃のエピソードが
出てくるのでした。

「毎晩、おそくなるまで、ボク(南伸坊)は会社で仕事をしていたけれども、
 それは会社のためではなくて自分のためだった。

 ためというより、おもしろいからやっていたのだ。
 長井さんは時々、一心不乱みたいに、ボクが机にかじりついて、
 髪をふり乱すみたいにして・・・やっていると、

 『 南、こらないでいいからナ・・・ 』

 と、肩のすっかり抜け切った例の声で言うのだった。」

このあとに、こうあるのでした。

「『手を抜かないように』とか、『もっとていねいに』
 という注意ならわかるが、『 凝らないように 』とは
 いかにも長井(勝一)さんらしいやと、

 その話を聞いて、皆で大笑いした。笑ってからしばらくたって、
 『 そうか 』と思った。

 『 凝りすぎないこと 』なのだ。これこそ、ぼくのような、
 病的に凝ってしまう性癖をもつ編集者にとっては、
 ほかの何を忘れても絶対に忘れてはいけない、重要な教えだったのだ。」
                       ( p206 )

松田哲夫著「縁もたけなわ」に、
本の雑誌の目黒考二さんが、五カ月後に終刊した雑誌を出した松田さんを
さそう場面がありました。

「・・『飲みましょう』と誘ってくれた。いろいろ話している時、
 『 松田さん、一生懸命やっていたでしょう 』と聞くので、

 ぼくは『雑誌は未経験なので、悔いのないように努力した』と答えた。
 ・・・・すると、

 『 雑誌は一生懸命作っちゃだめ。読者が窮屈になるんですよ 』と言う。
 その時、目からウロコが落ちるような気がした。  」(p231)

この本に、もう一箇所引用したいところがありますので、
もう少しお付き合いください。それは老人力が語られる箇所でした。

「赤瀬川さんには、物忘れ、固有名詞が消える、『どっこいしょ』と言う、
 溜息をつくなどの老化現象が、現われ始めていた。
 そこで、『忘れる』談義に花が咲く。

『若い時って、イヤなことをいつまでも覚えててつらかったこともあった』
『記憶力は頑張れば身につくけど、忘れるのは頑張ってできることじゃないね』
・・赤瀬川さんらしい考え方が全面展開される。そこで藤森(照信)さんは、

『老化ってマイナスイメージしかない。思いっきり力強い表現にしちゃおう』

 と『 老人力 』という言葉を口にする。・・・・・

『 スポーツの力は筋トレなどでつけていく。
  でも、いざチャンス、いざピンチという時には、
  コーチや監督が『 肩の力を抜いていけ 』と言う。
  あれも同じじゃない 』

 ・・・そして、老人力のあらたなが解釈が積み重なっていく。 」(p210)
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ワープロ(パソコン)のおかげ

2023-11-05 | 本棚並べ
松田哲夫著「縁もたけなわ」(小学館・2014年)に
小沢信男さんが登場する場面がありました。

読んだこともない方なのですが、
何だか小沢さんの本が読みたくなり気になるのでした。

「自他ともに許す『筋金入りの怠け者』である小沢さん・・」(p157)

とあります。松田さんとの付き合いがはじまる場面では

「小沢さんとつきあうようになってわかったのだが、
 この人は視点がいい、文章がいい、その上、人柄がいい、
 まさに三拍子揃った作家なのだ。・・」(p156)

松田さんは、小沢さんに本を書かせたいと面とむかっていうのでした。

「ぼくは、そういう小沢さんが歯がゆくてならなかった。
 彼が70歳になったころに、酔った勢いで、

『 小沢さん、もういい年なんだから、
  いつまでも命があると思っちゃあダメ。
  ライフワークを書くべきです 』

 などと失礼なことを口走ってしまった。
 小沢さんは、ニコニコ笑いながら、盃をなめていた。 」(p156~157)


こうして、「評伝『 裸の大将一代記  山下清の見た夢 』が
2000年に完成し刊行された。72歳にして、初の書き下ろしとなった。」(p157)

「82歳になった小沢さんは、さらに『東京骨灰紀行』を書き下ろす。」

はい。わたしはそのどちらも未読。
そもそも小沢信男さんというのを知らない癖して、
最後の箇所を読むと、何だか同時代性を感じます。
それは、この箇所。

「ますます元気な小沢さんを訪ねてみた。
 すると、若い頃は、
『 ・・・親のスネをかじっていたので、どこかで
  ≪おりてる≫という感覚だった 』という。

 では、老年の旺盛な執筆の理由はと聞くと、
『 60代後半に出会ったワープロ(パソコン)のおかげ。
  原稿用紙に向かうプレッシャーがないし、いくらでも
  書き直せるので、書くのが楽になった 』という。・・ 」(p158)


お歳はだいぶ違うのですが、そうそう
『 原稿用紙に向かうプレッシャー 』という感じを、
このところ、学校以来ですが久しく忘れておりました。

ということで、松田さん「縁もたけなわ」をひらけば、
いろいろと本の紹介にもなっていて、選べるのですが、
ここは一番、『裸の大将一代記』を読むことにします。

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似顔絵師・南伸坊

2023-11-04 | 絵・言葉
津野海太郎著「かれが最後に書いた本」(新潮社・2022年3月)
その表紙カバーは、津野さんの似顔絵(装丁南伸坊)でした。

うん。似顔絵ということで、
松田哲夫著「縁もたけなわ」(小学館・2014年)をひらいてみる。
副題には「ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち」とある。

ほぼ56人が登場しておりました。
その人たち一人一人の、始まりのページに似顔絵があり、
絵本の絵だけを見でワクワクするようなそんな魅力です。

「 装丁・装画・本文イラスト 南伸坊 」とあります。

登場人物のはじまりは安野光雅さんで、
津野海太郎さんの登場する回の、イラスト(全部が白黒なのですが)には
「私(しんぼう)のマンガの主人公『ロボ』は実は津野さんがモデルです」 
                             ( p279 )

とあるのでした。この本に最後に登場するのが南伸坊さんでした。
そこから、引用しておくことに。

「ぼくの編集者人生も、40数年になる。振り返ってみると、
 あらゆる局面で、南伸坊さんにお世話になっていることがわかる。」(p367)

「・・彼(伸坊さん)は似顔絵を描くのは好きだったようだが、
 仕事で描くのも、たくさんの人を描くのも初めてだった。・・」(p368)

「登場人物は約650人になった。南さんの似顔絵は、
 73年の約250人から、75年には約450人・・ついに約600人に達した。

 これは、短時日で描く量ではない。
 でも南さんはめげることなく、毎日、100枚近い似顔絵を描いていた。

 ところが、どうしても似ない顔があるようで、
 彼は何枚も描き直しては、首を傾げていた。聞いてみると、
 美女やハンサムは特徴がないので書きづらいという。 」(p370)

はい。松田哲夫著「縁もたけなわ」の56人のイラストは、
それはもう、似顔絵の集大成といった味わいなのでした。

 
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「面白いものはないか」

2023-11-03 | 重ね読み
えーと。
①津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)
②小林秀雄「青年と老年」(「考えるヒント」の中の一篇)
③吉田兼好「徒然草」の第155段。

と3冊を引用してみます。
まずは、②からでいいでしょうか。
そのはじまりは、こうでした。

「 『 つまらん 』と言ふのが、亡くなった正宗さんの口癖であった。
  『 つまらん、つまらん 』と言いながら、何故、ああ小まめに、
  飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだろうと
  いぶかる人があった。しかし、『 つまらん 』と言うのは

  『 面白いものはないか 』と問う事であろう。

  正宗さんという人は、死ぬまでさう問ひつづけた人なので、
  老いていよいよ『面白いもの』に関してぜいたくになった人なのである。

  私など、過去を顧みると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要の
  なかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、
  苦労して捜し廻らねばならなくなって、
  初めて人生が始まったように思うのだが・・・・

  ・・のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、
  当人は次第に円熟して行くとも思い込む、そんな事にも成りかねない。」

このあとに、小林さんは、徒然草のエピソードをとりあげるのでした。
その徒然草の箇所は、どこだったかなあと、さがせば、ここあたりかな。

「・・生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
 四季は、なお、定まれる序(つい)で有り。死期は、序でを待たず。

 死は、前よりしも来たらず、予(かね)て、後ろに迫れり。
 人皆、死有る事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、
 覚えずして来る。

 沖の干潟(ひがた)、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。 」

             ( 徒然草第155段。その最後の箇所 )


はい。②と③と続いて、最後に①です。①のあとがきから引用。

「 ・・・・ あるいは、こうもいえる。
  ものごころついてからの人生を、10代から30代の青春期、
  40代から60代の壮年期、そして70代から90代の老年期と、
  30年ずつ、ざっくり三つに割ってしまう。

  若いときは未知の未来がたっぷりあるし、意地でも、
  じぶんを他人とはちがう存在として考えたい。
  それやこれやで気張って人生を細分化してしまいがち。

  しかし齢をとって人生を終わりから眺めるようになると、
  それが変わる。ここまできたのだもの、もうこのていど
  の大ざっぱな分類でいいんじゃないかな。

  そう考えておけば『百歳までの読書術』は、
  私にとっては『七十歳からの読書術』とほとんどおなじ意味になる。

  その最終段階に足を踏み入れ、このさき、
  じぶんの読書がどのように終わってゆくのか、
  そのおおよそがありありと見えてきた。となれば、
  こここそが私の読書史の最前線である。
  好奇心をかきたてられずにいるわけがないよ。・・  」(p269~270)


うん。70歳からの『最終段階』の『最前線』というフレーズを反芻していると、
つい。『 つまらん 』と『 面白いものはないか 』を思い浮かべました。


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ともあれ、めでたい。

2023-11-02 | 道しるべ
三年連用日記を注文しようと、ネット検索してたら、
『3年メモ』という商品があり、気楽そうな、そちらを注文。
はい。日記など続いたためしはないのですが、
何せ、すぐに忘れる自分を思うにつけ、
つづけられなければ、つづけられなくてもよしとして、
思いついたが吉日と、注文することに。


津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に
「もの忘れ日記」と題する箇所がありました。そのなかに、
母親のことがでております。

「一昨年、94歳で死んだ母が、昨年、アルツハイマーを病み、
 そうとわかってから、その日にあったことをこまかく
 その場でメモするようになった。

 年になんどか、それ用の赤い表紙のノートを買って届けていたっけ。
 こうした努力のせいもあってか、最後まで、息子の顔を見て
 『 あら、あなたはどなた? 』というようなところまで
 病状が進行することはなかった。

 今年、じぶんの日記をつけはじめて、あれあれ、
 おれもあのころの母さんとおなじじゃないか、と思いあたった。・・

 それならそれでしかたないけど、そのまえにもういちど、
 なんとか忘れずにいる努力ぐらいはしておこう。

 そう考えて・・ うまく思いだせない名詞は
 地図でも辞書でも名刺でも伝票でも、なんでもつかって
 その場で確認し、日記に書きつけておくことにした。

 そんな作業を三か月つづけたら、あぶない名詞類も
 多少は安定して思いだせるようになった。
 ともあれ、めでたいーー。  」(p134)


はい。『 ともあれ、めでたい 』といえるまで、
三か月つづけるのか、何とか三か月ならできそうな気がしてきた。
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