映画「ノクターナル・アニマルズ」を映画館で観てきました。
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ファッション・デザイナーのトム・フォードが監督だ。視覚的に楽しめそうな映画という先入観で映画館に入る。当然、エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホールいずれもこのブログで再三取り上げているおなじみの俳優であることも観に行く大きな理由である。
時代の軸を少しづつずらして、エイミーアダムスの生活を映し出す。同時に主人公に送られてきた元夫の著書の内容を追っていくストーリーを映像にする。その物語は緊迫感を持って流れていく。スティーブン・スピルバーグの「激突」やクウェンティン・タラティーノの「デス・プルーフ in グラインドハウス」がもつ怖さを連想させる小説の内容である。それをフォローするアベル・コジェニオウスキの音楽も緊迫感を助長する。ペドロ・アルモドバル監督作品で音楽を担当するアルベルト・イグレシアスのテイストだ。
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同時にアートギャラリーの経営者を演じるエイミー・アダムスの周辺を美しく映す。美術衣装および色彩設計は実にお見事である。ロケする住宅もすげえ家だ。映画というのはストーリーだけではない。それだけだったら、小説で読めばいい。プロットを中心に視覚、聴覚でどう観客に訴えるかということが大事だと改めて教えてくれる作品である。
スーザン(エイミー・アダムス)はアートギャラリーのオーナー。夫ハットン(アーミー・ハマー)とともに経済的には恵まれながらも心は満たされない生活を送っていた。ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワード(ジェイク・ギレンホール)から、彼が書いた小説「夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)」が送られてくる。
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夜のハイウェイの運転中に、レイ(アーロン・テイラー=ジョンソン)らに襲われるトニー(ジェイク・ギレンホール二役)とその妻(アイラ・フィッシャー)と娘(エリー・バンバー)。家族を見失ったトニーはボビー・アンディーズ警部補(マイケル・シャノン)と共に行方を探す。
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彼女に捧げられたその小説は暴力的で衝撃的な内容だった。彼はなぜ小説を送ってきたのか。
いきなり、強烈に太った女性が 裸で踊る姿がオープニングだ。何これ?と見始める。アートギャラリーの陳列みたいだが、これもよくわからない。
1.我々に起こさせる錯覚
エイミー・アダムスが元夫から送られた小説を読み始める。時代が遡って、ジェイク・ギレンホールが家族と運転する車が、チンピラの乗る車に挑発されるシーンが出てくる。ここで我々を1つの錯覚に導く。この車に乗っているのが、妻であるエイミー・アダムスとその娘ではないかと。自分の嫌な思い出をつづっているかのように。途中までそう信じて、妻と娘が行方不明というけど、違うのでは?今、生きているじゃないと。この錯覚があるから、この映画の緊張感がもっている。
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最後のエンディングロールで、アイラ・フィッシャーというクレジットを見つける。あれ?彼女が主演の「お買い物中毒な私」ってブログアップしたことあったっけ。「グランドイリュージョン」の一作目でも水槽トリックを演じていたよね。暗めに車の中をとらえていたので、てっきりこの車中の人をエイミー・アダムスだと思ってしまった。でも似ているよね。この2人
2.二人のなれそめと妨害するもの
この小説を送った意味を観ているものに考えさせる設定にしているのであろうか。映像はテキサスから大学進学時に出てきた旧知の2人がニューヨークで再会して付き合いはじめるシーンを映す。2人はアイビーリーグの名門大学にいずれも通うという設定で、あえてジェイク・ギレンホールは正統派アイビールック風にボタンダウンシャツを着ている。もともと惹かれあっていたのだ。
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このあと、名優ローラ・リニーがエイミー・アダムスのお母さん役で出てくる。セレブ役をやらせるとうまい。彼女が二人の結びつきに徹底的に反対するのである。これが二人の別れと結びつくと想像させるのであるが、露骨には映画ではそれを見せない。今は、エイミー・アダムスの家庭はうまくいっていない。というよりも夫が浮気をしている。映画では露骨に示す。どんな意味があるんだろう。
なぜ小説を送ったかは、どっちにもとれる内容である。ネタバレにならないように自分の見方を言うと、自分なりには復讐と感じる。だからこそあの終わり方をするのだと思う。最後に着飾ったエイミー・アダムスが向かうレストランの和風を織り交ぜたインテリアはすばらしく、ウィスキーロックを淡々と飲むエイミーアダムスの姿が目に焼き付く。
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ファッション・デザイナーのトム・フォードが監督だ。視覚的に楽しめそうな映画という先入観で映画館に入る。当然、エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホールいずれもこのブログで再三取り上げているおなじみの俳優であることも観に行く大きな理由である。
時代の軸を少しづつずらして、エイミーアダムスの生活を映し出す。同時に主人公に送られてきた元夫の著書の内容を追っていくストーリーを映像にする。その物語は緊迫感を持って流れていく。スティーブン・スピルバーグの「激突」やクウェンティン・タラティーノの「デス・プルーフ in グラインドハウス」がもつ怖さを連想させる小説の内容である。それをフォローするアベル・コジェニオウスキの音楽も緊迫感を助長する。ペドロ・アルモドバル監督作品で音楽を担当するアルベルト・イグレシアスのテイストだ。
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同時にアートギャラリーの経営者を演じるエイミー・アダムスの周辺を美しく映す。美術衣装および色彩設計は実にお見事である。ロケする住宅もすげえ家だ。映画というのはストーリーだけではない。それだけだったら、小説で読めばいい。プロットを中心に視覚、聴覚でどう観客に訴えるかということが大事だと改めて教えてくれる作品である。
スーザン(エイミー・アダムス)はアートギャラリーのオーナー。夫ハットン(アーミー・ハマー)とともに経済的には恵まれながらも心は満たされない生活を送っていた。ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワード(ジェイク・ギレンホール)から、彼が書いた小説「夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)」が送られてくる。
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彼女に捧げられたその小説は暴力的で衝撃的な内容だった。彼はなぜ小説を送ってきたのか。
いきなり、強烈に太った女性が 裸で踊る姿がオープニングだ。何これ?と見始める。アートギャラリーの陳列みたいだが、これもよくわからない。
1.我々に起こさせる錯覚
エイミー・アダムスが元夫から送られた小説を読み始める。時代が遡って、ジェイク・ギレンホールが家族と運転する車が、チンピラの乗る車に挑発されるシーンが出てくる。ここで我々を1つの錯覚に導く。この車に乗っているのが、妻であるエイミー・アダムスとその娘ではないかと。自分の嫌な思い出をつづっているかのように。途中までそう信じて、妻と娘が行方不明というけど、違うのでは?今、生きているじゃないと。この錯覚があるから、この映画の緊張感がもっている。
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最後のエンディングロールで、アイラ・フィッシャーというクレジットを見つける。あれ?彼女が主演の「お買い物中毒な私」ってブログアップしたことあったっけ。「グランドイリュージョン」の一作目でも水槽トリックを演じていたよね。暗めに車の中をとらえていたので、てっきりこの車中の人をエイミー・アダムスだと思ってしまった。でも似ているよね。この2人
2.二人のなれそめと妨害するもの
この小説を送った意味を観ているものに考えさせる設定にしているのであろうか。映像はテキサスから大学進学時に出てきた旧知の2人がニューヨークで再会して付き合いはじめるシーンを映す。2人はアイビーリーグの名門大学にいずれも通うという設定で、あえてジェイク・ギレンホールは正統派アイビールック風にボタンダウンシャツを着ている。もともと惹かれあっていたのだ。
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このあと、名優ローラ・リニーがエイミー・アダムスのお母さん役で出てくる。セレブ役をやらせるとうまい。彼女が二人の結びつきに徹底的に反対するのである。これが二人の別れと結びつくと想像させるのであるが、露骨には映画ではそれを見せない。今は、エイミー・アダムスの家庭はうまくいっていない。というよりも夫が浮気をしている。映画では露骨に示す。どんな意味があるんだろう。
なぜ小説を送ったかは、どっちにもとれる内容である。ネタバレにならないように自分の見方を言うと、自分なりには復讐と感じる。だからこそあの終わり方をするのだと思う。最後に着飾ったエイミー・アダムスが向かうレストランの和風を織り交ぜたインテリアはすばらしく、ウィスキーロックを淡々と飲むエイミーアダムスの姿が目に焼き付く。
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