8月20日
気仙沼から海岸沿いを南下し、いよいよ今回の一番の目的地、志津川町に入る。ここにはかつて派遣・非常勤医師として勤務したことのある志津川町立病院(現公立志津川病院)がある。海岸の岬を回り込んで志津川の町に入るとそこには・・・戦場のような光景が広がっていた。
<南三陸志津川町>
突然眼前に広がった悲惨な光景、5ヶ月経ってもまだガレキが散在し、粉々になった町の光景が広がっていた。ガレキを運ぶトラックが行き交い、海岸近くに高く積まれている。港に立ち寄ってみると、建物は骨格だけ残って粉々になっており、あったはずの道も壊れて無くなっていた。漁港は一応再開されているらしく、4~5隻の漁船が停泊し、フォークリフトや魚の籠が積まれていた。黄色いTシャツを着た人だかりがあったが、ちょうど放映されていた24時間テレビのロケだった。

志津川漁港 建物はボロボロの状態だが、このままで使用されていた。人だかりは24時間テレビのロケ。

漁船が数隻停泊していた志津川漁港。

一応漁港は再開されているらしい。

道路は復旧されているが町はガレキが散乱。側溝は潮が満ちてくると海水が逆流してくる。

海岸の近くに山積みにされたガレキの山。ガレキを積んだトラックが頻回に行き交う。
病院に行ってみると、まだガレキが全く撤去されずに山のように積み重なっていた。津波後のそのままの状態といった感じだ。病院1階には花壇が設けられていて、花の他にぬいぐるみやおもちゃが捧げられていたのが印象的だった。そっと花を手向けてきた。お世話になった病院の変わり果てた姿に、言いようのない空しさと脱力感に襲われた。

公立志津川病院。かつて勤務していたことがある。

病院の前はガレキの山。5か月過ぎてもまだ手がつけられていない状態。

公立志津川病院、左側。

病院玄関

病院1階に設けられている花壇。ぬいぐるみやおもちゃも供えられていた。

病院側から見るガレキ集積所。この山をこれからいったいどうするのだろうか?

病院裏側に転がっていた救急車の残骸。津波の破壊力の凄さを思い知る。
病院の裏側に防災対策庁舎がある。津波に襲われつつも、最後まで避難放送を行って殉職された遠藤末希さんがいた場所である。ここにある花壇に捧げられていたユネスコの手紙には思わず涙をこぼしてしまった。庁舎のまわりもまだ手つかずのガレキの山、復興というにはまだ程遠い状況であった。

志津川町防災対策庁舎。骨格だけしか残っていない。

庁舎前に設けられた花壇。訪れる人が後を絶たない。

この手紙には泣けた。
<石巻市、石巻市立病院>
時間は夕方の6時を回ってしまったが、5月にも視察に行った石巻に立ち寄った。前回は石巻港を一望できる日和山公園から石巻港周辺の惨劇を見下ろした。この時は交通規制があり、自衛隊と災害支援の車両以外は核心部に入れなかった。確かに、ガレキが散乱してその撤去作業が行われており、邪魔な車が入れるような状態ではなかった。

石ノ森章太郎館の前にある石巻港沿い遊歩道は地盤沈下で水没している。周辺の道路も一部水没。
カーナビに従って石森章太郎館のある川沿いの道を行こうとすると、その道は地盤沈下のため水浸しの状態で通行不能だった。戻って日和山公園の裾を走って石巻市立病院付近に到着した。まだ細かなガレキは残ってはいるが、5月に比べると格段にきれいに片付いていた。石巻市立病院は道を隔てて石巻湾に面した位置にあり、1階部分はボロボロになっていた。3階より上は大丈夫そうに見えるのだが、問題は地盤沈下だ。院外薬局は半分近くが水没しており、駐車場と思わしき場所も水たまりに変わり、そこには小魚が跳ねていた。とても使えるような状況ではなく、今後もこの場所で再開して良いのかどうか、おそらくは無理だろうと思った。

石巻市立病院周辺の津波被災地。細かいガレキが散乱しているが、5月に比べると格段にきれいになっていた。

水没している石巻市立病院周辺

かつては道路と駐車場だったと思われるが、水につかり、ここでは小魚が跳ねていた。

石巻市立病院玄関。1階部分はボロボロ。

石巻市立病院側から見る日和山公園。あの高台に皆逃げた。

今回視察した場所
この日は仙台にホテルをとってあり、8時頃到着した。利休で牛タンを食べ、仙台駅周辺のアーケード街を散策したが、仙台の町は何事も無かったかのように、以前と変わらずにぎやかだった。(3日目、名取市閖上地区、仙台空港周辺に続く)