今年3月に東北被災地を訪れた際に、女川町の「おかせい」という食堂かつ鮮魚店に立ち寄らせていただいた。食事をした後にその店のおかみさんに津波の時の話やその後の生活の話を伺い、涙せずにはいられなかった。それからのおつきあいで、妻が数回山梨の桃をおかせいに送り、お礼に新鮮なほたてや毛ガニをいただいた。そのお礼と、その後の被災地の状況を自分の目で見たくなり、1日休みをとって金曜日、土曜日の1泊2日で被災地を回って来た。今回はまだ訪れていない大川小学校にも立ち寄った。
まずは仙台に1泊。甲府から圏央道と東北道を使って480㎞ほどの距離があり、甲府を午前11時に出発して午後6時、仙台に到着した。ホテルにチェックイン後、まずは食事に。仙台といえば牛タン、前回ふらりと入店した国分町の「一福」というお店の味噌焼き牛タンが絶品で、再びその店を訪れる。あまり大きな店ではないが芸能人の色紙がずらり、ゆずやコブクロの色紙もあった。もうひとつおすすめメニューは牛タンのさしみ。半分凍りついて油の乗った牛タンさしみは甘みがあって絶品、ここでしか食べたことが無い。
そして翌朝、9時にホテル出発してまずは石巻に向かう。
石巻市立病院周辺の住宅地は草むらに変貌していた。観光バスで視察に来ている人たちも見かけられた。
火災にあった中学校。がれきが散乱した住宅跡は草むらに変わっていた。
石巻市立病院はそのまま手つかずの状態。水たまりはやや悪臭を放ち始めていた。
さらに北上して女川町に向かう。まずは前回は訪れなかった女川医療センターの高台に行ってみた。
女川の医療センター。右の救急車が停まっているところが救急医療センタ-、左が介護支援センターになっているらしい。
医療センターとその上の高台にある熊野神社。
救急医療センターの前にある柱に津波到達地点が記されている。1階部分は完全に水につかった。押し寄せてきた波よりも引き波のほうが水位が高かったそうで、医療センター前から見ていた人たちの多くが引き波で犠牲になったそうだ。
医療センターから見下ろす女川の町と女川湾。石巻とは異なり、こちらは整地されている。中央は津波で倒れた鉄筋住宅。
駐車場の隅に設けられた慰霊碑。
医療センター上の高台にある熊野神社。ここに登っていた人たちは助かった。
熊野神社から見下ろす医療センターと女川の町。
津波で倒れた鉄筋住宅。保存するか、片付けるか町民の意見が分かれたそうだが、公園にして保存することになったようだ。
午前11時半、今回の一番の目的地、「おかせい」に到着した。道路を隔てて向かいにあった工場らしき建物は撤去され、駐車場に変わっていた。そして左脇の広場も一部整地されて車が置けるようになっていた。中に入っておかみさんに挨拶すると、「桃の人が来た」といって従業員の皆様に紹介してくれ、大歓迎された。社長さんまで挨拶に来てくれて、津波の時の状況や今後の計画など、いろいろお話を聞かせていただいた。引き波で多くの人たちが犠牲になったことも、公園になるという話も社長さんから聞いた話だ。そして現在急ピッチで整地が行われている場所は10mほどの盛土にして底上げし、8年計画で町を復興して行くそうだ。社長さんをはじめおかせい従業員の皆さん、復興に向けて活気十分で、私たちのほうが元気をもらった。
「おかせい」 食堂と鮮魚店が一緒になっている。手前にいるのが社長さん。
一押しの海鮮丼。このボリューム、しかも毛ガニ汁が付いて1,200円は激安!!
さらに海沿いを北上し、甚大な被害を受けた雄勝町を通過して北上川河口近くに立つ大川小学校に立ち寄る。ここは避難が遅れ、76人もの犠牲者を出した場所だ。
大川小学校。花壇が設けられ、弔問者が後を絶たない。
大川小学校全容
裏側に高台になった草地があるが、震災当日は雪が積もって凍っており、小学校低学年の児童が登れるような状況では無かったと聞く。そのために橋の方向に避難しようとしたのかどうかは定かではないが、もし自分がその場にいたらどうしたか・・・あれほどの津波が来るとわかっていれば、この山の上しか選択肢は無かったかもしれないが、それは結果を見ているから言えることだろう。
さらに海沿いを北上、最後の目的地、南三陸志津川町を訪れる。昨年8月に訪問した時はあまりの酷さにやりきれない虚しさと脱力感を覚えた。あの時はまだ手付かずだった公立志津川病院は重機が入ってようやく撤去されているところだった。こちらも住居跡は草むら化していた。防災対策庁舎は保存するらしく、そのまま建物は残っており、こちらも観光バスを含めて弔問客がたくさん訪れていた。
草むら化した住宅地跡。向こうの重機が入っているところが公立志津川病院。建物はもうすっかり取り壊されている。その向こうは相変わらずの瓦礫の山。
防災対策庁舎と弔問者たち。
防災対策庁舎。
時間は午後3時半。帰り際に志津川町の町はずれにある仮設商店街に立ち寄る。観光客向けだけでなく、仮設住宅の人たちの支援も兼ねているようで、スーパーの中の食料品はずいぶん安い値段で売られていた。一般道を1時間ほど走って築館インターから東北道に乗り、あとはひたすら車を飛ばして帰るだけだ。途中のサービスエリアに忘れ物をして引き返して回収するというアクシデントもあったが、休憩を交えつつ未明1時、自宅に到着した。さすがに運転疲れと車酔いで翌日午後まで自宅で寝た。
今回視察した中では女川がいちばん復興に向けての作業が進んでいるように感じた。おそらくは山が近いという立地条件から高台が整地し易いという好条件があるからかもしれない。石巻や南三陸はいったいどうなるのか?整地したとしても果たしてそこに家を建てて住めるのかどうか・・・このまま荒れ地になってしまうのだろうか?まだ計画すら立っていないのではないだろうか。そして瓦礫の処理も。
いつも野次馬のようにしか訪れていない私が言うのもおかしいかもしれないが、被災地の本当の復興を心から祈りたい。
まずは仙台に1泊。甲府から圏央道と東北道を使って480㎞ほどの距離があり、甲府を午前11時に出発して午後6時、仙台に到着した。ホテルにチェックイン後、まずは食事に。仙台といえば牛タン、前回ふらりと入店した国分町の「一福」というお店の味噌焼き牛タンが絶品で、再びその店を訪れる。あまり大きな店ではないが芸能人の色紙がずらり、ゆずやコブクロの色紙もあった。もうひとつおすすめメニューは牛タンのさしみ。半分凍りついて油の乗った牛タンさしみは甘みがあって絶品、ここでしか食べたことが無い。
そして翌朝、9時にホテル出発してまずは石巻に向かう。
石巻市立病院周辺の住宅地は草むらに変貌していた。観光バスで視察に来ている人たちも見かけられた。
火災にあった中学校。がれきが散乱した住宅跡は草むらに変わっていた。
石巻市立病院はそのまま手つかずの状態。水たまりはやや悪臭を放ち始めていた。
さらに北上して女川町に向かう。まずは前回は訪れなかった女川医療センターの高台に行ってみた。
女川の医療センター。右の救急車が停まっているところが救急医療センタ-、左が介護支援センターになっているらしい。
医療センターとその上の高台にある熊野神社。
救急医療センターの前にある柱に津波到達地点が記されている。1階部分は完全に水につかった。押し寄せてきた波よりも引き波のほうが水位が高かったそうで、医療センター前から見ていた人たちの多くが引き波で犠牲になったそうだ。
医療センターから見下ろす女川の町と女川湾。石巻とは異なり、こちらは整地されている。中央は津波で倒れた鉄筋住宅。
駐車場の隅に設けられた慰霊碑。
医療センター上の高台にある熊野神社。ここに登っていた人たちは助かった。
熊野神社から見下ろす医療センターと女川の町。
津波で倒れた鉄筋住宅。保存するか、片付けるか町民の意見が分かれたそうだが、公園にして保存することになったようだ。
午前11時半、今回の一番の目的地、「おかせい」に到着した。道路を隔てて向かいにあった工場らしき建物は撤去され、駐車場に変わっていた。そして左脇の広場も一部整地されて車が置けるようになっていた。中に入っておかみさんに挨拶すると、「桃の人が来た」といって従業員の皆様に紹介してくれ、大歓迎された。社長さんまで挨拶に来てくれて、津波の時の状況や今後の計画など、いろいろお話を聞かせていただいた。引き波で多くの人たちが犠牲になったことも、公園になるという話も社長さんから聞いた話だ。そして現在急ピッチで整地が行われている場所は10mほどの盛土にして底上げし、8年計画で町を復興して行くそうだ。社長さんをはじめおかせい従業員の皆さん、復興に向けて活気十分で、私たちのほうが元気をもらった。
「おかせい」 食堂と鮮魚店が一緒になっている。手前にいるのが社長さん。
一押しの海鮮丼。このボリューム、しかも毛ガニ汁が付いて1,200円は激安!!
さらに海沿いを北上し、甚大な被害を受けた雄勝町を通過して北上川河口近くに立つ大川小学校に立ち寄る。ここは避難が遅れ、76人もの犠牲者を出した場所だ。
大川小学校。花壇が設けられ、弔問者が後を絶たない。
大川小学校全容
裏側に高台になった草地があるが、震災当日は雪が積もって凍っており、小学校低学年の児童が登れるような状況では無かったと聞く。そのために橋の方向に避難しようとしたのかどうかは定かではないが、もし自分がその場にいたらどうしたか・・・あれほどの津波が来るとわかっていれば、この山の上しか選択肢は無かったかもしれないが、それは結果を見ているから言えることだろう。
さらに海沿いを北上、最後の目的地、南三陸志津川町を訪れる。昨年8月に訪問した時はあまりの酷さにやりきれない虚しさと脱力感を覚えた。あの時はまだ手付かずだった公立志津川病院は重機が入ってようやく撤去されているところだった。こちらも住居跡は草むら化していた。防災対策庁舎は保存するらしく、そのまま建物は残っており、こちらも観光バスを含めて弔問客がたくさん訪れていた。
草むら化した住宅地跡。向こうの重機が入っているところが公立志津川病院。建物はもうすっかり取り壊されている。その向こうは相変わらずの瓦礫の山。
防災対策庁舎と弔問者たち。
防災対策庁舎。
時間は午後3時半。帰り際に志津川町の町はずれにある仮設商店街に立ち寄る。観光客向けだけでなく、仮設住宅の人たちの支援も兼ねているようで、スーパーの中の食料品はずいぶん安い値段で売られていた。一般道を1時間ほど走って築館インターから東北道に乗り、あとはひたすら車を飛ばして帰るだけだ。途中のサービスエリアに忘れ物をして引き返して回収するというアクシデントもあったが、休憩を交えつつ未明1時、自宅に到着した。さすがに運転疲れと車酔いで翌日午後まで自宅で寝た。
今回視察した中では女川がいちばん復興に向けての作業が進んでいるように感じた。おそらくは山が近いという立地条件から高台が整地し易いという好条件があるからかもしれない。石巻や南三陸はいったいどうなるのか?整地したとしても果たしてそこに家を建てて住めるのかどうか・・・このまま荒れ地になってしまうのだろうか?まだ計画すら立っていないのではないだろうか。そして瓦礫の処理も。
いつも野次馬のようにしか訪れていない私が言うのもおかしいかもしれないが、被災地の本当の復興を心から祈りたい。