後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨットの船舶検査を受けるための整備

2009年06月05日 | うんちく・小ネタ

今日は曇り、小雨でしたが3年に一度受ける船舶検査のための整備をして来ました。

夜間航海用の船首の紅緑2色灯、マスト上部の停泊燈、マスト中部の航海灯、船尾の航海灯が完全に点燈するように整備してきました。写真のマスト上部の小さな電灯が停泊灯でその下の電燈が航海灯です。その他にエンジン始動用のマリンバッテッリーを充電して来ました。

法定備品の救命胴衣定員分7個、信号紅炎2本、アンカーとアンカーロープ、消火機、黒球、などなどを揃えました。信号紅炎2本は期限切れなので、これだけ新しく購入しました。9600円でした。

7月に検査に来てもらう手数料が14600円です。従って3年に一回の船舶検査の総費用は今回は24200円だけです。車の車検は2年に一度で強制賠償保険料も含めてほぼ15万円ほどかかります。車検に比較すると船検はとても安い感じがします。

中古ヨットを買う時は法定備品がすべて揃っている艇を買うことが重要なポイントです。法定備品が揃っていないような船はメインテナンスが悪いものです。いくら格安でも要注意です。

夜間航海が出来ますので今年も10月の土浦花火大会を湖上へ船を出して見物しようと思っています。        (終わり)

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北京への追憶の記事に対して、しみじみとしたコメントを頂きました

2009年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、「北京ダックと周栄章さんの思い出」という文章を掲載しました。北京への追憶と亡くなった中国人の友人の思い出の記です。それに対してコメントを頂いたお二人の方の文章を下にご紹介いたします。

SEIKOさんは水墨画を教えていらっしゃる女性の方です。畳1枚くらいの大きな水墨画を30人ほどのお弟子さんへ教えているそうです。BYOOLというSNSの中で頂いたコメントです。

parismidoriさんは南フランスに住んでいらっしゃいます。素晴らしい南仏の風景写真やお菓子の写真を多数掲載したブログを書いています。何度かそのブログをご紹介しましたのでご存じの方も多いと思います。(終わり)

========SEIKOさんからのコメント==============

藤山杜人さんのブログを拝読しました。
私には中国人だけでなく、韓国人・台湾人の友人が多くいます。現地に住んでいる人も、在日のひともいますが、みんな素晴らしい人たちばかりです。
「中国人(韓国人)というものは・・・」という言い方で、批判する人たちを見ると、とても悲しくく思います。
友情というものは、互いの誠意で成立・継続するものなので、そういう付き合いのできなかった人たちを、気の毒に思います。人間の心の貧しさが悲しいのです。SEIKOより、

=====フランスに居るparismidoriさんからのコメント============

こんにちは。私の両親は満州育ちで、長春という町で終戦を迎え、戦後日本に帰ってきたいわゆる引揚者です。敗戦後、当然のことながら急に態度を変えた中国人が多いなか、立場を失って混乱する日本人たちが引き上げてゆくのをさりげなく手助けしてくれた、心温かな中国の方たちがたくさんいたということ、また、子供を泣く泣く中国の人に託して帰国する日本人がたくさんいたことを、亡くなった父からよく聞かされました。会社勤めの晩年、北京に駐在する機会を与えられました父は、あの頃、お世話になった中国の人にご恩返しをする気持ちで仕事をしたいとよく申しておりました。”北京”の文字をみると、私は亡父の思い出とともに、私の知らない戦争のことなどを思い浮かべてみております。投稿 parismidori | 2009/06/04 21:34

============終わり===================


アイヌ人と付き合って居た頃の追憶

2009年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいました。その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいました。同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。

少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木が2,3本転がっています。

アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。60年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。

第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。

以前、北海道・日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。敗戦後の仙台の郊外で付き合ってアイヌ人一家のことを懐かしく思いながら感慨深く見て回りました。茫々、あれから50年、あの一家の運命はどうなったのでしょう。

ウィッキペデアのアイヌ民族の項目には1904年、北海道で撮影したアイヌでの集合写真があります。どう見ても日本人とは全く違う民族です。この民族が消えてしまったのです。明治以後の日本人が消してしまったのです。

私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。妻は右端の女性のように見えました。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない人々でした。いつもニコニコしていましたが何かもの悲しく、消えゆく民族の運命を悲しんでいたようです。皆様でアイヌの人々と直接交わったご経験がおありでしたなら是非体験談をお聞かせ下さい。(終り)

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