今日は中国の朝鮮族自治区出身で中国共産党員の金さんの話を紹介し、日本人は朝鮮文化をもっと尊敬し、朝鮮族の人々ともっと友好的になったほうが良いという主張する記事を掲載しました。私の文章には日本にも朝鮮族自治区を作ろうという強い主張は書いてありませんでした。ただその可能性を考えてみませんか?という提案をしただけです。しかし、突拍子過ぎるし絶対反対というメールやコメントも頂きました。
とにかく、今日の記事に対して趣味人倶楽部の中で賛否両論の激しいメールやコメントを頂きました。
日本に朝鮮族自治区を作るのは私の主張ではありません。朝鮮文化を尊敬したほうが自分の文化も豊かになります、という主張をしたかったのです。
さて、ここで何故私が朝鮮族へ寛大な意見を持つようになったか?その個人的理由を書かないと不公平になると思います。
一言で言えば、1984年頃、「大韓民国金属学会」に招待講演によばれ大変親切な接待を受けたからです。個人的な恩があるからです。そのいきさつは長くなるのでいつか書きますが、要するに個人的な恩恵を受けたので韓国人の肩を持つのです。
しかし、実はそれだけではありません。私は欧米諸国で何度も差別され不愉快な思いをしました。その結果、差別する人々の心が貧しいことに気が付きました。
可哀相なのは差別されている人々ではなく、差別をしている人々なのです。その事が分かってからなるべく他人を差別しないようになりました。
差別されるより差別している人々の方が不幸な、悲しむべき存在なのです。自分を善い人間にしようと努力している人々は他人を差別、蔑視しないほうが良いのです。
この2つのことを書き加えて、色々な方々からのコメントへ対する御礼に代えたいと思います。
賛否、どちらにしてもコメントやメールを下さいました方々へ感謝申し上げます。
yuyuさんが私の真意を読みぬいて下さいました。そして私の文章の至らない部分を補強して下さいました。以下にそのyuyuさんのコメントをご紹介して、終わりにします。
========yuyuさんのコメント==============
日本の政府、官僚の支配の方法がお粗末なのでしょうね。百済、秀吉と古い時代から、関東大震災後、下らぬ流言から、朝鮮人を襲った事件。彼らを下に見る悪い傾向があります。占領地政策も支配そのものでしたから、反感のみが残りました。
私は多くの韓国アーティストとの親交があり、先方の政府や行政機関との正式な文化交流もしてきましたから、彼らを見下げる理由を見つけることはできませんでした。
寧ろ、日本の文化が中国から伝来するとき、朝鮮半島経由が多かったのです。このことは、奈良時代の遺跡からも十分証明されます。
尊敬に値する多くの学者、芸術家と交流してきましたから、お互いが尊敬しあう仲でもあります。
ある時、私が仲間数人と韓国ソウル特別市を正式訪問したことがあります。市には愛知県、犬山市、一宮市、江南市の尾張地区の首長の親書を携えてでした。愛知県の担当係長は頑張って、日本語と英語の二国語の親書を用意してくれました。
ところが出発寸前になって、県とソウル市は格が違うから親書を出した前例がないと、上司が断ってきました。
我々に利害はありませんから、親書のことは中止して出向きました。
先方は到着時刻に我々を正式に待ちうけ、次の年オープン予定の美術館館長まで市長室に呼んで待機してくれました。各都市への返礼は当然ですが、愛知県へも丁寧な口頭の返礼が有りました。
後日、国会議員のパーティーで、愛知県の知事に会ったので、其の話を伝えました。親書を封じた課長は叱りを受けたと聞きました。ソウル特別市は格式は日本の県と同格だったからでした。即ち、其の課長の偏見とお役人根性がそうさせたのでした。
そんな例から見ても、日本人の韓国に対する意識を変える必要は多分にあると思います。
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東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)
朝鮮半島は中国に接し、昔から中国の歴代王朝の圧迫や侵略を受けてきました。また日本は海を渡って百済を助け高句麗を攻めました。近世になってからは秀吉軍が侵入し朝鮮半島の全域の寺を徹底的に焼き尽くし、陶工や職人達を多数拉致し、連れ帰りました。北に強大な中国、南には日本という場所にある朝鮮の歴史は苦難の連続でした。
しかし朝鮮の苦難は日清戦争や日露戦争のあと一層酷いものになったのです。日本が朝鮮を武力併呑してしまったのです。日本の統治は過酷を極め、全住民の名前を日本風に変えさせ、日本語の使用を強制したのです。朝鮮文化の抹殺をしようとしたのです。
1981年、中国の中国の瀋陽へ行ったとき親しくなった金教授の両親は、日本によって旧満州へ追われ満州開拓へ協力したそうです。終戦後、旧満州が中国共産党の支配下になった時、金さんは共産党員になったという。日本の支配と中国の支配の両方を体験した朝鮮族です。中国国籍はすぐ貰えたそうです。旧満州には多くの朝鮮人が住んで居たので、現在の中国には朝鮮自治区が数多く存在しています。中国政府によって朝鮮語と朝鮮風の生活が認められているのです。
日本と中国のどちらの支配が住みやすいですか?と金さんへ聞いたところ、言下に中国です、と言いました。日本は朝鮮を武力併呑した後、多くの朝鮮人を日本本国だけでなく樺太、満州、南洋諸島へ連れていって労働者として使役しました。兵隊へも駆り出して使ったのです。戦死者も多く、その上、1945年8月6日にソ連が樺太や旧満州へ侵入してきた時、日本人は朝鮮人を置き去りにして引き上げてしまったのです。
中国人の他民族の支配は長い歴史があり、賢明な支配の仕方が出来上がっている。食生活、生活習慣、宗教は可能なかぎり自由にするという。金さんの勤めている大学の学生食堂には、回族学生ための料理人が居て食堂も別棟になっているという。
日本の支配の仕方は、創氏改名のように名前から変えさせ、朝鮮語を禁止し、反感を買ったのです。日本人はその罪滅ぼしをするように心がけながら、韓国や北朝鮮の(政府ではなく)民間の人々と個人的な友人になるように努力したほうが良いと思います。
在日韓国人・朝鮮人に対する差別もまだ有るようで心配です。一切の差別を無くせば、日本人にとっても、もっと住みよい国になると思います。(昨年、小金井公園で撮った李朝宮廷芸能の写真を挿絵として添えます)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人