後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

この拙いブログへのアクセス数の多さに感謝します!

2009年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の東京地方は朝からドンヨリした梅雨空で、今にも降り出しそうです。憂鬱な気分です。

こういう日は楽しいことを書いて爽快な気分になるのです。何か愉快なことは無いかなあ?と考えていましたら気分がウキウキすることを思いつきました。

昨日のこのブログへのアクセス数が418件もあったことです。クドクドと書き込んだ長文の記事を毎日2、3本掲載しています。我ながら出来の悪い写真を毎日4、5枚大きく掲載しています。

つまらない題目の随筆を書くだけのブログです。趣味といえばヨットと山林の中の小屋だけです。芸能界のことはサッパリ知りません。スポーツ音痴です。軽妙洒脱な語り口も出来ません。ただただ長い駄文を書きこむだけです。それなのに見て下さる方が、昨日は418人もいらっしゃったのです。気持ちが明るくなります。憂鬱な梅雨空など忘れてしまいました。

このブログを始めてから、「一日のアクセス数は200以上」 という目標を設定して、毎日努力してきました。ところが6月に入ってから、一日のアクセス数の一週間平均が300以上という日が続いています。昨日など一週間の1日当たりのアクセス数の平均が359件でした。

ブログのアクセス数を増加させるためには、芸能界の話題やグルメ記事を鮮明な写真とともに多数掲載するのが良い、と聞きました。お笑い芸能人の記事もアクセス数を増やすとも言います。しかしこのブログにはそのような内容の記事は一切有りません。知らないので書けないのです。

それなのに世の中の皆様はこの長文だらけのブログをご覧になって下さいます。私は心の中から深く感謝しています。

本当に有難う御座います。感謝申し上げます。 藤山杜人


豪華なヨットのキャビンを独り楽しむ

2009年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

先日の夜のセイリングのことです。海の上から見た街の夜景が素晴らしいので皆は外に居ます。キャビンの中は何時も誰も居ません。

美しい木で出来た内装を楽しむために独りでビールを飲みました。テーブルも椅子も重厚に出来て居ます。外の木製の甲板とともに有名な岡崎造船で改良したそうです。日本一美しいヨットを作ることで有名な瀬戸内海の岡崎造船です。仕事をしたのは71歳の老職人で、最後の仕事と言っていたそうです。外の舵輪のところに居る船長のOさんが静かな声で話をしてくれました。良く出来た内装のキャビンで独りビールを飲むのは楽しいことです。

キャビンの壁には大きなテレビがあります。船の前方の映像を暗夜でも鮮明に映し出します。キャビンの中からでも、リモートコントロールで舵を動かす操舵装置がついています。レーダーもGPSも全ての電子機器がついているそうです。自動水洗トイレも前後2ケ所についています。寝心地の良さそうな寝室も前後に3つあります。全部で8人は泊まれそうです。

このような内部の構造を考えた人々の偉さを想像しながら、ビールを飲むのです。テーブルの向こうに見える冷蔵庫には持ち込んできた発泡酒という軽い味のビールが沢山残っています。外から船長のOさんのくゆらせている葉巻の香りが流れ込んできます。

夜のセイリングの楽しさは街の夜景を見るだけではありません。実はキャビンの中で飲むビールも楽しいものです。下に、外の様子と、キャビンの中を撮った写真を掲載します。(終わり)

057 064


娘が殺されても銃規制へ賛成しないアメリカ人

2009年06月22日 | インポート

個人が銃を持つ権利は憲法で決まっていると、アメリカ人はよく言う。そのように解釈される文章があると言う。

それにしても、あまりにも痛ましい事件だった。親しい友人の娘のことなので、心が痛む。しかし、アメリカ社会が銃を持つ自由で成立していることを日本人が深く理解するために書くことにした。

 オハイオに住んでいた1960年、1961年に良く遊びに来てくれたアメリカ人一家がいた。その可愛い娘が十年後に恋人の男性に射殺された。それも自宅の庭の中で。その恋人の男は永い付き合いで家族同様に娘の自宅に出入りしていた。銃声に、ある予感を持った父親が引き出しからピストルを取り出して飛び出していく。娘が裏庭の芝生の上に倒れている。男の姿は無い。娘が20歳になった年の夏のことだった。

 それから、10年後、1980年にその一家の自宅に泊まる。18年前に、その娘のかわいい姿をオハイオで何度も見ているので、お悔やみの言葉を言う。しかし慰める言葉も無い。いずれは結婚してくれると信頼していた青年に殺される。あまりにも痛ましい。

 「日本ではピストルの規制が厳しく、個人がピストルを持つことは無い。アメリカも日本のようにすればこんな痛ましい事件は起きなかった」 と、私が言った。

 父親は引き出しからピストルを取り出して、私に持たせ、「よく見ろ」と言う。

 「日本のことは知らないが、アメリカ社会の自由と平等はピストルを持つ自由で成り立っている。娘を殺した男は絶対に許せない。しかし、それだからと言ってアメリカ社会の銃器保持の自由を廃止するという論理が理解できない」

 「物騒なものが手元にあるから使う人が出るのでは?」

 「危険な道具を使うか否かは人間が決めること。道具が人間に使えと命令するはずが無い」

 「でもアメリカでは銃を使った犯罪が多すぎませんか?」

 「このピストルは一度も使ったことは無い。使わなくてすむように賢明な生活をすれば良いのです。銃を使用した犯罪は自由社会の代償であり、仕方のないことです」

 「銃使用の犯罪は自由社会の代償ですか!」

 娘を射殺した男は逮捕をまぬかれ、遠くの州へ逃げて行ったそうである。その数年後、男は外国から両親へ謝罪の手紙をくれたそうである。その後の消息は分からない。父親は絶対に許さないと悲しそうな顔で言う。そばで母親が涙をぬぐっている。

アメリカの学校などでしばしば銃の乱射事件が起き、日本の新聞では「個人の銃保持を禁止すれば良い」と同じ主張を無責任に繰り返している。虚しい空念仏を繰り返しているだけである。最近、銃を規制する州も増えつつあるが、猟銃などは釣り道具屋やホームセンターで売っている。

アメリカ人の本音を聞いたり、突っ込んだ取材をしようとしないマスコミの軽さに毎回呆れている。 マスコミこそ何故、アメリカで銃規制をしないか踏み込んだ調査をして報道すべきではないだろうか?

銃に頼るアメリカ人を笑う資格が他国の人々には有るのだろうか? (終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。    藤山杜人