後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

頭が休まる写真を送ります

2009年06月14日 | 写真

教養としてのキリスト教(13)信者は毎週キリストの体を頂く、を書いて頭が疲れました。お読み頂いた方もお疲れ様でした。そこで頭のスッキリする写真を3枚お送りします。

玲さんという水戸にお住まいの方です。女性らしい瑞々しい感性を感じさせる美しい写真が沢山あるブログを書いていらっしゃいます。

玲さんのお写真は花々をテーマにした傑作が多いのですが、今回は珍しく雄大な初夏の海岸風景です。

http://blog.goo.ne.jp/koiredawa/m/200906から転載させて頂きました。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終わり)

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教養としてのキリスト教(13)信者は毎週キリストの体を頂く

2009年06月14日 | うんちく・小ネタ

宗教には信者以外に喋ると 誤解されて嫌われることが有ります。従って、その部分は秘密のようになってしまい、信者以外の一般の人々の疑念を一層掻き立てます。でもその部分が宗教にとって一番重要な部分であることが多いのです。

キリスト教徒が毎週、キリストの体を頂いて、食べている。と、言ったら、顰蹙を買うことになりかねません。

日曜日の礼拝やミサの重要な部分に、「ご聖体を頂く行為」があります。信者が一列になり祭壇の方へ歩いて行きます。祭壇の上に立っている神父さんが一人一人へ、「キリストの体」と言って、パンのかけらを手の上に乗せてくれます。以前は、口の中に直接入れてくれました。信者は、「アーメン」と唱えて受取ります。これが聖体拝領の行列なのです。

キリストの体としてパンを食べるとき、2つの食べ方があります。一つはイエス様のシンボルとしてパンをパンとして食べるのです。もう一つはパンを本当にイエス様の肉体の一部と信じて食べるのです。シンボルとして食べるのがプロテスタントです。本当にイエス様の肉体の一部として食べるのがカトリックです。プロテスタントは科学的合理性を重んじます。カトリックは神秘的な信仰です。ちなみに私はカトリックです。

さて何故このような行為をするのでしょうか?それはイエス様が最後の晩餐の時、そのように命じたからです。今日は「キリストの聖体」の日曜日なので、マルコによる福音書で、そのことを書いた部分が朗読されました。

======マタイの福音書の抜粋=================

・・・、一同が食事をしているよき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」 また杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そしてイエスは言われた。「これは多くの人のために流される私の血。契約の血である。・・・」

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すなわち、イエスはパンのかけらを自分の肉体、葡萄酒を血として弟子たちへ提供したのです。

この最後の晩餐のすぐ後にイエスは処刑されます。そして3日目に復活して生き返るのです。

皆様がキリスト教を教養として理解する場合、その理屈、すなわち教義だけを理解したとしたら、「本当の教養」になりません。信者の行動や心の揺れ動きを合わせて理解してはじめて身に着いた教養になると信じています。想像力を発揮して宗教の神秘的な奥の部分を理解することが重要になります。(続く)


自然の不思議さに打たれて、つい写真を撮る

2009年06月14日 | 写真

35年以上の長い間通っている山林の中の小屋。行く度に自然の不可思議さに打たれてしまいます。

いつ行っても、「独り言のような水音」を、林に響かせて流れている小川のことです。春が来て、梅雨時になり、秋が過ぎ、冬になっても、「一定の水量」で流れているのです。

耳を澄まして聴いていると、コトコト、サラサラ、ジャブジャブと話し合っているように、微妙に水音が変わります。しかし水量は四季を通してまったく同じなのです。

小屋の周囲から上流一帯は雑木林が続いています。林がこのように水量を一定にしているのでしょうか。

木々の緑を映している小川と、窓の外の雑木林の緑をお楽しみ下さい。昨日、家内が撮った写真です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。   藤山杜人

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