後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

皆様のお家は?

2009年06月07日 | インポート

私達の家は東京オリンピックの1964年に出来た家です。

近所の地価の足を引っ張っていますが、有難いことに誰も文句を言いません。素晴らしいご近所さんです。太陽が東から西に動いている間にこんな美しい光景が楽しめます。

(この分厚い角型のガラスは1972年の増築した廊下の西端です。)

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江戸時代の絵画の輝きー細見氏三代の選択

2009年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

明治末期生まれの大阪の実業家、細見 良(初代 古香庵)とその息子、孫、三代が60年にわたり日本画、、茶道具、などを蒐集しました。それを展示する美術館が、京都にあります。国立京都美術館の近くに10年前に開設された細見美術館です。そのコレクションから名品を90点選び、東京、日本橋高島屋7階で6月15日(月)まで展覧会が開催されています。(http://www.emuseum.or.jp/

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家内に誘われるままにあまり期待もせずに出かけました。琳派・若沖を中心に江戸時代の絵画と茶道具や焼き物が展示してあります。中にはあまり聞いたことの無い画家の大作の絵が多く展示してあります。みな芸術的香りの高い良質な絵です。

ゆっくり見ながら歩いて行きます。次第に心が豊かになってきました。絵画の選び方が楽しいのです。画家の有名、無名に一切こだわらないで、自分が気に入った絵だけを丁寧に集めて行った。その心が肌に感じられるコレクションです。事業で成功してお金には困らない。だから有名な芸術作品だけを買い集める。そういう姿勢が皆無なのです。ただただ自分の好きな絵、尊敬している絵だけを集めているのです。

その姿勢に感動して、引き返して小部屋で上映している細見氏三代の紹介映画を見ました。

映画の中で、三代目の孫が素朴な語りで説明しています。祖父の好みの絵画は3つの時代に分類できる全ての琳派の絵、とくに強い個性的な構図と色彩の鮮やかな絵でした。その上、無名の画家の絵も大切にしていました。二代目は優しい性格の人でしたので、集めた絵もみな穏やかで、心を慰めるような絵が多いのです。そんな説明をしています。自分の話はしません。細見美術館を京都に作ったのはこの孫だったのかもしれません。

話は変わりますが、小生は学校で典型的な戦後教育を受けました。封建時代の江戸時代は人民が搾取され、酷い時代でした。と、いう教育を受けました。自由民主主義や共産主義の素晴らしさを強調する反動で江戸時代否定の雰囲気が強かったのでしょう。

年を取ってくるに従い、江戸時代を見直す習慣が身について来ました。今日の細見氏三代による絵画のコレクションを見て、特に個性的な選択の姿勢も含めて大いに感動しました。

6月15日まで日本橋、高島屋で開催していますので是非ご覧になることをお勧めいたします。

きっと感動されると信じています。(終わり)


潮来から引っ越してきたあやめが遂に咲きました

2009年06月07日 | 写真

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昨年6月、はるばる潮子へあやめ祭りを見に行きました。一面に咲き誇るあやめの花々を見て酔ったような気分になりました。その勢いで根株つきの花を5株も買って帰りました。このコンピューターの机の向こうの窓の外の水盤に植え、毎日、水を欠かさないように1年間世話をしました。その一本が昨日、遂に咲きました。つぼみももう3本くらいありますので次々咲くのが楽しみです。このあやめに誘われて今年も潮子のあやめ田を見にゆきます。6月15日前後が満開の様子です。あやめの写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終わり)


鵜飼と戦争ーそのおとぎ話のような展開

2009年06月07日 | 旅行記

○河北の湖の鵜飼漁師へ迷い込む

北京の南、河北省には背丈の高い葦が密集した広大な湖がある。1996年に遊びに行った広大な湖。縦横ともに約40㌔。近隣の農民の観光地らしく、湖上遊覧の小船がビッシリと並んでいる。

岸辺には、質素な魚料理店がいくつもあり、中国の人々が群がっている。外国人観光客は一人もいない。

小さな舟に乗り葦の間の水路を行くと、突然視界が開け、一面大輪の白いハスの花の原になる。 さらに密集した葦の中を沖へ沖へと進む。かなり沖に出た所で水路が開け、黒い鵜(う)を20羽くらい乗せた舟が何艘も舫っている。鵜飼漁で生活をしている人々の住んでいる島である。何軒かの粗末な漁師の家が見える。

鵜飼と言えば、長良川の鵜飼をテレビで毎年見ていた。鵜飼の発祥の地へ分け入ったような感じがしたので漁師の話を聞くことにした。黒い鵜が並んでとまっている舟に近付いてもらった。通訳を通して一時間ほど話を聞く。

      ○鵜に助けられ、日本兵から逃げ切った話

「お邪魔しますが、少しお話をして良いですか?」「いいよ」「鵜飼は日本にもありますが、中国から伝ったようですね。これで生活しているのですか?」「そうです。一年中よく魚が取れるので十分生活出来ます」「鵜飼の難しいところは?」「鵜は一羽一羽、皆気性が違うので、それに合わせ世話をすることです」

「話は変わりますが、前の大戦では日本兵が来ませんでしたか?」「われわれを使役に使うために、よく駆り出しに来ました」「ひどい話ですね」

「いや、私は一回も捕らなかった。日本兵は駆り出しを始める前、湖に向かって威嚇の鉄砲をパパーンと打ち上げます。それを聞くと、舟に鵜を乗せて視界の悪い密集した葦の中に入ってしまうのです。岸から遠く離れ、二、三日、鵜が取った魚を食べて暮らすのです。燃料は枯れた葦の茎、野菜は食用になる水草とハスの実。生活には困りませんね。二、三日して島に帰ると、日本兵は居なくなっている。戦争で日本兵を見たことはありませんでしたね。鉄砲の音だけでしたよ」 「鵜に助けられたのですね」「いや全くそうです」

       @日中戦争の実態

河北省と言えば北京の南隣で日本軍が日中戦争ですぐに占領した地域の筈。州都の保定市には蒋介石の卒業した士官学校もあった。それなのに戦争を遠い出来事のように過ごす農民が居るのだ。日本軍が南中国の桂林まで占領したという。しかし単に鉄道や道路の上を通過して行っただけだったのだ。何十年も経って突然、日中戦争のある実態を肌に感じた。戦後、日本の新聞が日本兵の暴虐ぶりを盛んに書きたてていた。戦争には色々な側面があることを知り、なにかホッとする。(続く)

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