@仙台脱出のきっかけを作ってくれた黒人軍曹
1959年、仙台の郊外の八木山に進駐軍が通信用のアンテナを立てることになった。山林の伐採、整地作業を20人ほどの日本人労働者が行うという。現場監督はひとりの黒人軍曹であった。当時英会話を習っていた私は通訳のようなアルバイトをした。3日間この軍曹の下で働いた。
仕事の段取りが出来、20人ほどの日本人労働者が仕事を始める。作業をしない軍曹と私はブラブラ見回るだけで暇である。
私が聞く、「キージンガー軍曹さん、アメリカへ留学したいがお金も無いし、方法も知らないし、どうしたら良いのでしょう?」、彼が答える、「私も来年除隊して大学へ行くよ。理工学系の大学院では月謝と生活費を出しているのが普通だよ」。
そして会話が続く、
「どうすれば留学先を探せるのですか?」
「簡単さ、行きたい大学の教授に手紙を出すのさ。何を研究したいか明快に書くことが肝心だよ」
「誰かそのような教授を紹介してくださいませんか?」
「アメリカでは紹介無しで直接手紙を出した方が真面目に検討してくれるよ」
数学が得意だという黒人の青年が目を輝かせ、自信に満ちて教えてくれた。
そうか、アメリカの大学では紹介状が無い方が良いのだ。コネや人脈を嫌う国とは聞いていたが驚いた。
@アメリカの教授10人へ直接手紙を送る
さっそく次の週、大学の図書館でアメリカの学会誌で調べ手紙を出すアメリカ人教授を探した。学会誌には論文を投稿した教授のフルネームと住所がかいてある。自分の専門分野の10人を選んで航空便を送った。3人から月謝と生活費を出してあげると返事がくる。3人からは丁寧な断り状。あとの4人はナシのつぶてであった。
1960年、8月にオハイオ州立大学のセント・ピエール教授のところへ行くことになった。
次の年、日本から婚約者呼び寄せ、オハイオ州のコロンバス市で結婚することになった。このときセント・ピエール先生ご夫妻が結婚式や披露宴の全ての準備をしてくれた。その後も一生この先生には特別なお世話になった。生涯の恩人である。
しばらくしてから教授が言う 「インドや台湾、日本からの推薦状はウソが多くて困ったものです」、私が言う、「推薦状では褒め言葉だけを書くという文化なのです。それは仕方ないのです」。弁護したが分かって貰えないようだった。
暗い、苦しいと思っていた仙台での生活はこうして1960年の8月に終わった。
オハイオでの生活は勉強が忙しく大変な思いをした。生活費もセント・ピエール先生から貰う奨学金だけなので楽ではない。しかし暗く苦しい青春が急に自由で明るい日々へと急展開したのだ。圧迫の主であった父親は留学と結婚が嬉しかったらしかった。コロンバス市での結婚式に来てくれた。結婚式を挙げたのは1961年5月だったが当時は外貨事情が悪く、父親は渡米に相当な苦労をしたらしい。仙台での青春時代は暗かったがオハイオ州への準備時代と思うことにしている。そう思って老境の自分を慰めている。 (終わり)
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 藤山杜人