後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世のはかなさを思わせる場所、悲しい思いをさせる場所

2009年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

東京駅前の旧丸ビルが無くなった。有楽町駅前の日劇ビルや朝日新聞社が消えてしまった。時の移ろいに何か空しい思いがします。

そして、よく買い物をした近所の馴染みのお店が突然倒産して消えてしまいます。跡地には見知らぬ商売が始まります。常日頃なじんで、生活の一部になっていた店が消滅するのです。暗く、悲しい気分になってしまうものです。この悲しさは年月が過ぎても忘れられないものです。

下の写真の回転寿司の店のあった所には、広い温室に熱帯の花々をあふれるように飾っていた園芸店・花屋さんがありました。店も広くて2棟の店内には鉢植えの花々が沢山売っています。店の前には蜜柑、柚子、柿、栗、葡萄の苗木が小さな実をつけて売っていたのです。毎年、年末になると見事なシクラメンの鉢を買うのが家内の楽しみでした。八重桜の苗やライラックの苗も買いました。何時行っても四季折々の花々が豊かに飾ってあるので、植物園へでも行くような気分で家内と散歩のように通ったお店です。

40年くらい前でしょうか、背の高い物静かな青年が一人で花々の苗を育てていました。消えのこる雪の間に鮮やかに咲くパンジーの苗を買ったのが付き合いの始まりでした。間もなく陽気な体格の良いお嫁さんが来て、温室を建て、その数が次第に増え、商売が繁盛します。アルバイトの若い男女を大勢使うようになり華々しい雰囲気の園芸店になりました。

それが数年前に突然倒産消滅しました。張り切って花を栽培し、あちこちから仕入れて来て、売っていた陽気な奥さんと、物静かな夫の姿が消えました。あれ以来二度と会っていません。何処か遠方へ行ってしまったようです。

しばらく空地になっていましたが、突然この回転寿司がやってきました。私は消えてしまった花屋さんの思い出を楽しむために時々食べに行きます。寿司を食べながら、「ああ、この辺には温室が有ったなあ!色々なランの花々が有ったなあー」と、花々のことを鮮明に思い出しながら食べます。その折々の家内の明るく輝く顔も思い出します。

新しいお寿司やさんは、値段の割には努力している店です。その上、私の心の中には美しい花々が有るので美味しく食べることが出来ます。

しかし、それと同時に世のはかなさを感じ、悲しい思いにさせられる場所でもあります。

楽しくて、悲しくて、はかなくて、せつない。  老齢になるとそんな気持になるもののようです。

貴方様にはそのような場所があるでしょうか?(終わり)

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オリンピックをした時、日本はこんなにも貧しかったのです

2009年06月18日 | 写真

1964年、昭和39年に東京ではじめてオリンピックが開催されました。その年は都市美化運動が行われ、都下の小金井市でも一斉にドブ浚い(さらい)が行われました。

下の写真は小金井駅から北方向へ小金井街道を行った所です。五日市街道交差点手前左側のある商店の前で近所の人々が協力し、ドブさらいをしている様子です。

この小金井駅へ行くメインストリートの汚さ、不潔さをご覧下さい。当時は下水道が無く、廃水は吸い込み式の穴に流し込んでいました。

戦後19年もたっても日本はまだまだ貧しかったのです。

その下の写真は同じところの写真です。昔あった商店が跡形もなく消えて、美しい歩道と街路樹があります。私は日本が貧しかった頃のことを絶対に忘れないようにしています。なお、1964年の商店のドブさらい の写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」です。(終わり)

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「一生忘れられない大失敗」

2009年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

これは仕事の上での恥ずかしい失敗の話です。あるとき、自分ながら見事な論文が書けたと有頂天になり、アメリカの学会誌へ投稿したのです。印刷公表される前に厳重な審査があるので有名な学会誌です。しばらくして恐ろしい審査結果が返ってきました。
 「この論文は非常に重要な問題を提案している。しかしその解答のための数学に大きな間違いがある。しかし、新しい重要な問題を提案しているので没にしないで、一度著者へ返却した方が良い」
 その後いくら検討しても数式の間違いは見つからない。自分の数学の学力不足なのです。仕方なく訂正なしで返送しました。編集部から間違いがあるが重要な問題提起なので急いで公表すると連絡がありました。

そして、翌月に間違ったまま掲載になりました。間違った論文が世界中へ公表されたのです。 

数式の間違いを自分で見つけたのは3年後でした。
 どの学会誌でも審査員は匿名です。公平な審査に感動して学会誌の事務局へ手紙を送りました。「非常に公平な審査をして頂いたので審査員へ御礼の手紙を出したいので、住所・氏名を教えてください」、と書きました。
 審査員はクリーブランドにある大学のクレーガー教授でした。お会いしたことは無かったが、有名な研究者でした。私は、「審査が素晴らしかった、感動したのでお礼状を差し上げます」と、航空便を送りました。 教授からは感謝してもらって嬉しいという短い返事がきました。
 クレーガー教授に一度は会ってみたいと思いつつ、年月が流れて行きました。しかし、十年後の1990年に、オハイオ州立大学で偶然会えたのです。クリーブランドの大学を引退しオハイオの大学の客員教授で夏の三カ月だけ来ていたのでしただ。自己紹介の後、「クレーガー先生、1980年に私の投稿論文の審査をしてくれたのを憶えていらっしゃいますか?」「ああ、良く憶えているよ。審査結果に感動してお礼状をくれたので特に憶えているよ」「日本では些細な間違いでも没になります。寛大な審査でしたので感動したのです」「そうですか?あの審査結果の報告の形式はアメリカでは普通で、アメリカ人からはお礼状なんて来ません」
 聞けばオハイオでは小さな論文を一つだけ書けば良いので毎日ゴルフに行っているとのこと。ただ車が無いのでタクシーで通っているという。
 すぐに送り迎えを申し出て三回ほどゴルフ場へ通う。四回目に、「勤務時間中に来てもらうのはやはり遠慮するよ」と丁重に断られる。あれ以来会っていないが永年の借りを返せたようで何か気持ちが良い。自分の数学の学力不足が大失敗へ繋がったのです。人生にはその様な苦い失敗が数多くあるものです。(終わり)