2006年に満70歳になったので仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていたロマンチックな土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」
「それは誰ですか?」
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」
「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」
「おたあ、を島の人々が始めは、助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」
「それで?」
「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」
「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」
「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」
「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」
「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。
現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。
帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首される。
家康の側室の侍女となったが家康の言いなりにならない。桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。
毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアあたあの慰霊祭も同時に行っている。
尚、ジュリアの再帰には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではない。
写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(続く)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人