後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ニコライも偉かったが、明治の日本人も偉かった!

2009年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。

日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。

しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライは顔色一つ変えず動揺しません。

日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。

特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。

しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。

これだけではありません。ロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問を日本政府と軍部が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。

1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。

日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。

ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。

私の手元にはそのような当時の写真があり、それを見ながら書いています。

捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の上半身肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。

ここで皆様に是非ご想像して頂きたいのです。1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようではありませんか?

それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、聖ニコライは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。

第二次大戦のアメリカ兵の捕虜に対して軍部は過酷な扱いをしました。アメリカからのキリスト教牧師が慰めに行くのを許しませんでした。それどころか敵性外国人として監視やスパイの嫌疑で逮捕していたのです。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。我々日本人はこのような明治時代の日本人をもっともっと誇りに思うべきではないでしょうか?

そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からと私は感じています。皆様は如何お考えでしょうか?(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人