後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水の美しさを撮影することの難しさ!何方かご指導下さい!

2009年11月22日 | うんちく・小ネタ

自分には大昔の水生動物だった頃の遺伝子が入っているせいか、不思議に水を見ると美しいと感じ、写真に撮りたくなります。しかし元々絵画を描くのが下手な上、写真術も貧弱なので、水の美しさを上手に撮影出来ません。自分が美しいと思った感動の十分の一も表現出来ません。下にその失敗作を3点掲載しますので、何方かご指導下さい。どこが下手で、どう写せば少しは良くなるか、その方法をお教え頂ければ嬉しく思います。まず忍野八海での写真を示します。岸辺が水面の美しさを引き立てている風景を撮った心算です。

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次は裏磐梯の五色沼の風波立つ水面の美しさと撮った心算です。

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最後は夕日に輝く霞ヶ浦の水面の美を撮った心算です

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これら3枚の写真はトリミングをしていません。何処かを切ってしまえば、少しましな写真になるかも知れまっせん。どこを何割切ったら良いかご指導頂ければ嬉しく思います。その通りトリミングして再度掲載いたします。どうぞ宜しくお願い申し上げます。藤山杜人


今日の宗教的な記事へ対するコメントと私の答え

2009年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今日はこの記事の下に2つの宗教的な記事を掲載しました。それに対して趣味人倶楽部のYKKさんから下記のコメントを頂きました。それに対する私のお答えも合わせて、ご紹介いたします。

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仕事でお茶の水界隈に行った時は外から眺めるだけでした。
私は神社仏閣は信仰の対象とは見ておらず歴史的建築物として見ます。したがって、お賽銭をあげることはありませんし、初詣にも行きません。子供の七五三も自宅でささやかにやりました。どうしても宗教を意識せざるを得ないのは冠婚葬祭の時だけですね。信心深い人間ではありません。ご容赦ください。

YKKさんへ
私に日記へコメントを下さいまして有難う御座います。
この日記をお読み頂いただけで嬉しく思います。私のような変な人間も居るもんだ、とご理解頂いただけで嬉しくおもいます。
宗教は無理に押し付けたりしないで、お互いあるがままでお付き合いをするのが最高に良いお付き合いと信じています。
正直なコメントを頂き、とても嬉しく思います。
敬具、    藤山杜人


世にもおかしい会話です

2009年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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キリスト教の聖書には現実的によくあるようなお話が沢山あって興味が尽きません。今日のミサで朗読したピラト総督とイエスの会話は現在でもよくある会話のような話です。相手が言っていることを理解できないピラトが勝手なことを言っているから可笑しのです。ピラトは政治権力にだけ興味があって宗教のことには全く無知だったのです。

当時の中近東はローマ帝国の領地で、ローマから派遣されたピラト総督が裁判権を持っていました。イエスの反対勢力のユダヤ教徒がイエスを処刑して貰いたくてピラトへ引き渡します。

ピラト;「お前がユダヤ人の王なのか」

イエス;「あなたは自分の考えでそう言うのですか?それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか?」

ピラト;「お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引きわたしたのだ。いったい何をしたのだ?」

イエス;「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」

ピラト;「それでは、やはり王なのか?」

イエス;「私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聴く」

ピラトは何が何だか理解できないままイエスへ磔の刑という判決を言い渡します。そして、イエスは、ゴルゴダの丘でローマ兵によって処刑されました。その上、ローマ兵はイエスの着ていた衣服を取り合うのです。当時衣服は貴重だったのです。

ピラトはユダヤ教の有力者が反乱をおこし総督としての自分の経歴に傷がつくのを恐れたのです。

裁判の間、ピラトの奥さんは女の直感で「これは何か変だ」と感じます。そこで夫にこの罪人にはかかわらない方が良いと忠告します。しかし夫は奥さんの言うことを無視します。何でも奥さんの言う通りしていれば良いという、おまけの教訓まで暗示しているように感じます。もっともこの暗示に賛成する人は恐妻家だけでしょうが。

要するに新約聖書の内容は人間的で、分かりやすく、現在でも良くあることが簡明に書いてあります。ピラトのような権力者は日本の現在の政治家にもよく見られるタイプの人間です。新約聖書をお楽しみ頂ければきっと何か得るところが有ると信じています。(終り)

上に示した写真は近所のサレジオ学園の鐘楼の写真です。


お茶の水のニコライ堂での日曜の礼拝に一般の人々も参加できます

2009年11月22日 | うんちく・小ネタ

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いきなりこんな書き出しをしてどうかと思いますが、私は最近非常に感動的な体験をしました。何気なく寄ったニコライ堂で正教会の金田一豊さんという聖職者にお会いしたのです。その方が私の面倒な要求に基づいて正教会のことを色々説明する長文の文章を送ってくださったのです。その文章を私の責任で編集し、宗教や神学の専門用語を出来るだけ分かりやすく一般用語に変えて、数回の連載記事にいたします。

今回は建築学的にも貴重なニコライ堂を見学し、日曜の礼拝式に一般の人が参加する場合のご案内をご紹介いたします。以下は伝教師の金田一豊様から頂いた文章の一部です。

==========金田一豊師の文章============

他の教会も兼任している忙しい神父さんは不在のときもありますが、僕の場合は伝道師なので基本はいつでもニコライ堂の聖体礼儀にて奉仕をしているますから、どうぞいつでもいらしてください。

古いローマカトリックの場合と同じく、洗礼志願者や信者ではない方の入るのに許される場所というのがありますが、もしそれでもよろしければどうぞ参祷してください。正教徒ではない場合は少し後ろ側の席になりますが、ちゃんと儀式は見ることが出来るのでご心配なく。(一般の方々は静かに見学も出来ますー藤山による追加の部分です)

それから僕でよければ時間の許す限り応対したいと思いますのでよろしくお願いします。

聖体礼儀中の説教と聖体礼儀後の信徒会館での講話というのが当番で回ってきますので、担当の日になってしまうとバタバタしてしまうでしょうが、それ以外は大丈夫ですのであまり気遣いなさないで気楽に来てください。

主日の開始時間は、10時に主教の入堂式があり、聖体礼儀自体は10時30分から始まります。終了は大体13時くらいだと思います。

一般の方に気をつけて欲しいことは、聖堂内では帽子を取って頂くことと肩にかける荷物は方から降ろして手に持って頂きたいということですね。基本的なマナーは昔ながらのローマカトリック教会とほとんど変わらないと思います。以下に少し詳しく説明いたします。

(1)祈祷文や司式の全体構造:

骨組みはローマカトリック、聖公会、東方諸教会、正教会はみな共通しています。

骨組み、つまり嘆願するときや聖書の読み、聖変化、領聖(聖体配領)などの基本的な組み立ては同じです。ただ、細かい点において差異が見られます。その一つとして東方正教会は古来から受け継いだまま現在に至り永遠に司祭、信者ともに東(同じ方角)を向いて祈祷を捧げます。これは儀式を司る主教、および司祭、ならびに輔祭(助祭)や堂役(侍者)は宝座(祭壇)の周りを囲み天国の天使が神を讃美する姿に倣い法事、奉仕をすることを意味することを基本として行います。そしてその讃美が煙とともに天に昇ることを願うので大量の香をたきます。

(2)もともと骨組みがローマカトリックと正教会は同じ:

正教会の聖体礼儀を基本にしてローマカトリックのミサを見比べたときには、この部分はここに当てはまる、あの部分はここに当てはまる、という風に説明することができます。が、逆はなかなか難しいです。なぜなら、ローマカトリックは時代とともに進化、変化をしていて、ある部分は簡略化となっているところもあります。一方正教会は簡略化や省略はせずにどんどん付け足していきます。なので、ローマカトリックで現在行われない部分などが正教会には色濃く残っています。その結果、祈祷の言葉や挿入部が多くなり複雑そうに見えます。

ローマカトリックの司祭が御ミサの前に別室で行うホスチアとぶどう酒の用意は、正教会では完全に儀式の一部なので儀式の一番初めに行われます。そしてローマカトリックの司祭入場という最初の部分は、正教会では聖体礼儀の中の小聖入と言う部分に当てはまり全体の3分の1ほどが進んだところになります。

そして正教会は毎回必ずニケア・コンスタンチノプール信経を用いて信仰を宣言します。

(3)楽器を使わない歌ミサ:

ローマカトリック教会の御ミサではパイプオルガンやその他の楽器が用いられますが、正教会では楽器は一切使いません。全てアカペラの合唱にて聖歌を歌います。楽器は素晴らしいものですが、感謝や讃美を捧げる行為、つまり心から神に捧げることは楽器よりも人間の体を用いるのが一番適しているということから歌のみという伝統となっています。

もちろんローマカトリックと同じく司祭との掛け合い(応答)形式になっていますが、全てが歌によって行われます。

そして教衆(聖職者や聖歌隊)と聴衆(参祷者)との役割の違いにおいて線をひいて儀式が行われ、進んでいきます。これは旧約時代の祭司やレビ人が担っていた役割を正教会は変えずに継承しているということになります。

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金田一豊師は赤羽のカトリック教会の方でしたが正教会へ改宗(正しくは帰正)された方です。何故ですか?と聞きました。「その方がイエス様(ハリスト様)の近くへ居るような気がしたからです」、これが彼の答えでした。素晴らしい答え方です。

まだ若い明朗闊達な方です。2、3分間しかお会いしなかったのですが、目から鱗が落ちるような気持ちになりました。気楽に何でも聞ける雰囲気を持っています。生まれつきの伝道者としてのタレントを神に頂いたのでしょう。私はカトリックの信者を止めるつもりは毛頭ありませんが正教会のこのような伝道者に会えたことを神へ感謝しています。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人