後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

情熱の内藤、テクニカルな亀田にWBCフライ級タイトルを取られる

2009年11月30日 | インポート

内藤が好きだったので勝って貰いたかった。しかし幾ら相手を倒そうという情熱があっても冷静にテクニカルなボクシングをする亀田には大差で判定負けをした。昨夜の世界タイトルマッチWBCフライ級の試合の話です。王者、内藤は35歳、挑戦者の亀田は23歳の新鋭。内藤は優しい性格で評判が良い。亀田は憎まれっ子役である。

ゴングが鳴って3回まで行った時、私は内藤の負けを予感した。大きく腕を振り回し走りまわって攻める内藤のボディーもフックも入らないのだ。一方、亀田は無駄な動きをせず内藤の動きを良く見据えている。時々出す強打が内藤を捉える。亀田の方が12歳も若いのにオーソドックスなボクシングをしている。その上スパーリングを十分し、良く仕上がっている。疲れを見せない。悔しいが内藤の負けだ。ラウンドを重ねるに従って審判員3人の合計点数の差が大きくなり、内藤の負け。勝負の世界は厳しいと思う。

私は生まれつき運動神経が悪くてスポーツが嫌いでした。学校の運動会は毎回悲しい思いをしたものです。ところが結婚した相手の一家はスポーツ好きの一家でした。

家内の父は学生時代は短距離選手でハイジャンプや幅跳びもしたそうです。ジャンアンツフアンで家内も息子も孫もジャイアンツファンです。その義父が私をボクシングへ連れていってくれて、そのスポーツの見方を教えてくれました。

正統的で、テクニカルなボクシングをする選手が結局は強くなるとしきりに言っていたのです。義父は10年以上前に亡くなりましたが、この言葉は忘れられません。テレビでボクシングを見るときは、オーソドックスでテクニカルなボクサーであるか否かと考えながら見るのです。そうすると運動音痴の私にも楽しめるのです。

皆様は昨日の内藤・亀田のタイトルマッチはどのような感想でしたでしょうか?


鳩山総理の優柔不断ぶりを非難する

2009年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

民主党が政権を取ったことは大変嬉しい。前原国土交通大臣も岡田外務大臣もよく彼方此方へ出張し、額に汗して働いている。言うことも鮮明で説明能力もある。感心している。

ところが対照的に優柔不断ぶりが酷いのが鳩山総理である。外国へ幾つも行ったのは良いが説明能力が不足していて迫力に欠けていている。一番いけないのは普天間基地の移転に関する決定をを理由も言わずに延期していることである。延期するのは決して悪いのではなく、何故決定を延期するのか理由を明確に説明していなのが悪いのだ。自分でも理由が分かっていなくて、単にアメリカへ立てついて、一部の国民から喝采を浴びようとしているだけに見える。

私はアメリカにたて突くことも重要な場合が有ると思う。しかし何故そうするか?その論理的説明をしなければ先方も単なる意地悪をされたと思い、悪感情を持つだけである。外交問題に感情問題は禁物である。

自民党の作った普天間移転計画の何処が、どのように具合が悪いのか指摘すべきである。この頃、鳩山総理の優柔不断ぶりがリーダーシップの欠如と思えるようになって来た。母親から9億円も貰って政治資金にしていたのだ。変な企業から賄賂的な政治献金を受けるより清潔と言える。しかし、あの年になって母親の援助を受けているのだ。お坊ちゃんだから優柔不断で、すべてもの事が自分で決定出来ないのかも知れない。寒心に堪えないの私だけであろぅか?皆様のご意見をお聞きしたいものだ。(コメントを待ちしています)」


セイリングの趣味とヨットの構造

2009年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨットは風の力だけで四方八方自由に走りまわれます。風に向かって走れることは体験しないとなかなか理解出来ないことです。風上に向かって45度方向へ昇れます。ですから、数回、ジグザグに昇れば、結果として風に向かって直角に昇ったことになるのです。15世紀頃この技術を持っていたスペインやポルトガルはヨットを大きくし、大洋を渡れる帆船を作りました。世界の海を渡って多くの植民地を作ったのです。その鍵は「風上へ昇れる性能」でした。下の写真は右側から吹いてくる風に向かって走っているヨットの写真です。

Dscn4150

ヨットは左から右へと走りながら、前方45度の右方向から風を受けます。従って、左側へ大きく傾きながら走るのです。上の写真はその様子です。傾いていますが、風に向かって走る場合の正常な傾き方です。風に向かって走る。ただそれだけで心浮き浮きになります。それだけで楽しくなります。これがセイリングの趣味です。風下へ降りるのは、あまり楽しくはないのです。しかしそうしないと港へ帰れない時は仕方が有りません。

風に向かって走れるのはヨットの構造が良く考えて賢く出来ているからです。500年間位の年月のヨーロッパ人の知恵の結晶が詰まっているのがクルーザーヨットの構造です。セーリングする度にヨーロッパ人の知恵の深さに感動します。そして家人がいつも感心するのはその美しさです。”用と美”のバランスが素晴らしい。のだそうです。

風に向かって昇るためには2つの構造上の秘密があります。マストの前後に三角形の帆を2枚揚げます。2枚とも風で少し膨らませると、前方へ吸いつける力が生じます。流体のベルヌーイの定理にしたがって生じる力です。2枚の帆が三角形であることが鍵です。四角形の帆は何枚揚げても前方へ吸いつける力は生じません。

2つ目の鍵は船底に大きな鉄板製のキールをとりつけることです。横流れを防止する目的と、船の重心を極端に下にして、起き上がりこぶし のように船の転覆を防いでいます。

日本の江戸時代の北前船にはこの2つの鍵となる構造が無かったのです。この違いは天気予報の無かった時代には生死を分ける決定的な差異でした。

クルーザーヨットには滑車が多く付いていて小さな力でも大きな帆を操ることが出来ます。ロープを止める金具も巧妙に作ってあります。舵は絶対に壊れないように出来ていて、人力で軽く回せるようにテコの原理が用いてあります。船の方向を見る磁石の針と円形の文字板は常に水平になるように球体を2個組み合わせて支えて、取りつけてあります。キャビンに中には炊事用の2口コンロや流し、そして食器棚や海図テーブルも付いています。寝室用のスペースがあり、水洗トイレもあります。何日も海の上に居ても生活が出来るように必要なものがコンパクトに組み込んであります。組み込み方が巧妙で知恵の集積のお陰であると感じます。

このように良く出来あがった船に乗っていると人間の知恵の深さがしみじみと分かり楽しいのです。単にセイリングの楽しさだけでないのです。それで必要もないのに港に係留した船に泊って楽しむのです。ヨットの趣味の楽しさを説明いたしました。中古ヨットは中古の車くらいの値段です。一度、この趣味を真剣にお考えになることをお勧め致します。(終り)


宗教に少しでも関心があったらニコライ堂の日曜礼拝を一度は見て下さい

2009年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

043

018 029 033

佛教でもキリスト教でも、とにかく宗教というものに少しでも関心のある方はお茶の水のニコライ堂の日曜礼拝を一度はご覧下さい。本を幾ら読んでも分からない宗教の本質的な部分が簡単に理解できます。

日曜礼拝のことを日本正教会では「聖体礼儀」と言います。きらびやかな聖職者の行列と美しい宗教音楽の極致のような混声合唱で神への崇拝を示しています。人間の神を敬う深さを儀式で示すとこのようになるのです。宗教の全てに普遍的な神への憐れみを願う儀式です。キリストの聖なる体の一部を(聖体)を頂くという儀式です。

日本正教の聖体礼儀は2000年前のキリストの生きていた頃のユダヤ教の礼拝式の形式を墨守してきたのです。新約聖書は始めはギリシャ語で書かれたのです。そのギリシャ語の原典に書いてある内容を忠実に教えています。キリスト教の正統的な宗派なので正教と言います。

この宗派はギリシャからビザンチンへそしてロシアへ伝わって、1855年函館へ上陸しました。日露戦争の時、ロシア本部から独立し、日本に根付いて日本正教会という宗教法人になりました。しかし教義と礼拝形式は2000年前の通り、一切の変更無しで、まったく同じなのです。宗教の本質の一つは「永遠に変わらない」という性質を含んでいます。そのことを礼拝式を実見して体験できるのです。

しかし、少しでも宗教に関心のある人はヨーロッパで起きた宗教改革のことを知っています。各国の近代化革命も共産主義革命も知っています。アメリカ流の自由と平等な民主主義も知っています。そのような極く普通の常識人がニコライ堂の日曜礼拝を見ると非常に大きなショックを受けるかも知れません。そこには聖職者と合唱隊と平信徒の恐ろしい差別があります。神に祈る儀式の大部分は聖職者だけがします。合唱がそれを助けます。平信徒は黙って祈るだけです。

昔、ロシアには貴族と農奴しか居ませんでした、と聞きます。農奴は文盲でしたから祈祷書は読めません。代わりに聖職者が全て読みます。そんな封建時代の圧政を連想させるのです。正直に言えば、見てはいけないものを見てしまったような暗然とした気分になりました。でも次の瞬間、気が付きました。それは自分の勘違いで、会堂全体にイエス様の笑顔が見えるようです。マリア様の優しい眼差しが見えます。壁に掛けた無数のイコンのマリア様は微笑んでいるのです。

儀式の見かけ上の荘厳さは人間の弱さの表れなのかも知れません。堅苦しい儀式が、実は自分の郷里の実家に帰った時のように寛いだものに感じられるのです。

普通の日本人がニコライ堂の日曜礼拝をみるとき一番重要なことは、儀式の豪華さや厳粛さの中に漂う「マリア様の優しさ」や「イエス様の慈しみ」を想像しながら見ることと思います。場違いな所に来たという感じや違和感が消えてなくなり、心から楽しめます。宗教というものに少しでも関心のある方は是非一度、ニコライ堂の日曜の聖体礼儀をご覧下さい。本には書いてない色々なことをご発見出来ると思います。(続く)


豪華絢爛な音楽ページェントが予約申し込み無しで気軽に楽しめます

2009年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、3時間近い絢爛豪華な音楽ショーを予約無しで楽しんで来ました。

楽器を一切使わない四部合唱が広壮な教会堂に響きわたり、きらびやかな金色の冠と法衣の裾をひいた数多くの聖職者が静かに動きます。祈りの美しい声が合唱とハーモニーをなして聞こえます。香りの良いキリスト教の薫物の煙りが会堂内に流れています。数百本のローソクの光が幻想的に輝いて、赤緑青など多彩なステンドグラスを美しく見せています。

これは大掛かりな音楽芸術のページェントです。

少なくともそのような側面を感じさせる日曜礼拝(聖体礼儀)でした。東京のお茶ノ水のニコライ堂で毎日曜日の午前10時から13時までの3時間続きます。

本当のことを書くと、自分は退屈するだろう。そうしたら途中で静かに失礼しようとも思っていました。しかし余りの素晴らしさに気がついたら午後1時になっていました。

日本人の多くは宗教に関心が有りません。宗教と聞くと避けて通る人もいます。お寺にはお葬式の時だけ行きます。そのような人でもニコライ堂の素晴らしい合唱藝術は是非お聞き頂きたいと思います。ヨーロッパのオペラの起源はこのような合唱と聖職者と合唱隊の歌による会話にあったのではないかと思います。納得します。オペラが好きな方々は是非ご覧下さい。

さて予約無しで毎週日曜日に気軽に楽しめると言っても少しのルールがあります。

まずキチンとした服装で午前9時40分には入場しておいて下さい。信者でない人々が座ってよい席は決まっています。会堂の一番後ろにグルリとある木のベンチだけです。その前に太い4本の柱が有りますが、そこから内側へは入ってはいけません。

受け付けで信者でないと言うと、100円でローソクを1本わけてくれます。それをベンチの前のマリア様の絵(イコン)の前のローソク台に火をつけて立てます。そしたらベンチに座って自分の席を確保します。後は音楽を楽しめば良いのです。10時になると数多くの鐘が鳴りわたり、着飾った聖職者の行列が入ってきます。

礼拝ですから途中で「祈りの言葉を印刷したカード」を持ってくる人がいます。二コリと微笑んで断っても結構です。その後しばらくして、大きく平らな献金籠を持った人もベンチの席まで回ってきます。一切無視しても良く、感動した分を入れるのも自由です。

3時間の間、立って見たり、座って見たりします。しかし立ったり座ったりは他の信者のタイミングに合わせるのもエチケットです。ベンチ席にもロシア人らしき本物の信者が混じって座っています。彼らの祈りの邪魔をしないようにしましょう。

3時間と長いので事前にお手洗いの場所を受付で聞いて確認しておきます。会堂内には無くて、向かいの建物の中にあります。

音楽の発展の歴史だけでなく、宗教儀式の歴史に興味のある方々にとっても非常に参考になる礼拝式です。尚、正教会では日曜礼拝を「聖体礼儀」とよびます。(続く)