gakuさんは奥様とタイのチェンマイに悠々と暮らして居ます。
とても写真がお上手な上、住んでいないと撮れないようなタイの風習や奥地の写真をご自分のブログに掲載しています。時々こちらのブログへも転載させて頂いていますのでご存知の方も多いと思います。
今回は、珍しい首長族の写真を転載させて頂きました。gakuさん、有難う御座います。詳しくは、http://gaku404.exblog.jp/16778884/ をご覧下さい。
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gakuさんは奥様とタイのチェンマイに悠々と暮らして居ます。
とても写真がお上手な上、住んでいないと撮れないようなタイの風習や奥地の写真をご自分のブログに掲載しています。時々こちらのブログへも転載させて頂いていますのでご存知の方も多いと思います。
今回は、珍しい首長族の写真を転載させて頂きました。gakuさん、有難う御座います。詳しくは、http://gaku404.exblog.jp/16778884/ をご覧下さい。
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ヨットとは何でしょう?日本でヨットと言う場合は遊びの目的だけで作られた西洋式帆船の事を意味します。日本の帆船は四角い帆だけを上げ、追い風でしか帆走出来ず、西洋式のは三角形の帆なので風上45度まで登れます。
下の写真はヨットの一番簡単な構造を持っている小型の帆船の写真です。
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何故、ヨットが面白い遊びになるかというと、帆に風を受けて走ることが人間へ快感を与えるからです。その上、適度の波に揺られるのも心地良いものです。ですから海上スポーツとして西洋では古くから多くの人々の趣味として発達して来ました。
この海上スポーツが日本へ入って来たのは明治維新前後からです。
横濱に在住していたイギリス人などの欧米人が自分達の趣味として楽しんでいたのです。そうして横濱ヨットクラブ(Y.Y.C)が明治19年(1886年)に出来たのです。
このクラブや他の外人のヨットクラブが週末毎に横濱で盛んにレースを展開していました。
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の面白い点は、明治初期から大正12年の関東大震災までの横濱における外人ヨットマンを詳しく調べ上げ正確に記録している点にあります。
そしてそのヨットの建造場所も突き止めています。横濱での小さな造船所で欧米人や中国人、そして日本人の船大工によって作られたのです。その詳細は省略しますが著者の白崎謙太郎氏の資料の読み方が厳正なので信頼出来ます。
例えば江戸幕府が貧しい漁村を横濱港として整備し、欧米人へ開放する準備の経過などの一節は歴史的研究として一論文を成すくらい検証が厳密です。
そして外人のお土産用に沢山描れた「横濱浮世絵」の絵のなかに見られる全ての帆船を丁寧に観察し、上の写真に示したような構造の船は無いと判断しました。すなはち、風上に登れるヨットは見当たらないと判定しています。
「横濱浮世絵」の描かれた明治維新前後にはヨットはまだ現れていなかったのです。しかし、その後の明治19年頃までには、多くの在住欧米人がヨットを所有するようになったのです。
ところが、欧米人の週末毎の華やかなヨットレースは、大正12年の関東大震災で消えてしまったのです。
震災で横濱は壊滅し、在住していた欧米人の事業も破滅に追いやられ、ヨットどころでは無くなったのです。関東大震災の横濱の被害は想像を絶する凄さだったのです。
日本人がヨットというスポーツを始めるようになったのはこの関東大震災前後からなのです。ここまでは白崎謙太郎著、「日本ヨット史」に書いてあることです。
以下は私の個人的な考えです。
明治維新前後から実に50年間も経過してからヨットが日本人の間に普及しはじめたのです。その間に日清戦争があり、日露戦争があり、イギリス製の軍艦が多数輸入され大活躍していたのです。
何故ヨットの普及が50年間も遅れたのでしょうか?
日本には、江戸時代以前から連綿として船を遊びの目的に使う文化が存在していませんでした。
お客を運ぶ、荷物を運ぶ、魚を獲る、などと実用的な目的だけに使用していたのです。
高価な船を遊びだけに用いる事は、贅沢過ぎ、良い事と考えられていなかったのです。
この文化は現在でも脈々と受け継がれていて漁港や漁船は法律的に保護され、国家が漁港を整備します。一方、ヨットは係留場所に苦労して肩身の狭い思いをしているのです。そのような事を考えると横濱で盛んに活動していた外人のヨットクラブが日本人へ影響を与えるのに50年間もかかった理由が理解できます。
欧米文化を過不足なく、忠実に、その全てを導入する難しさは昔も今も変わらないのです。日本人の都合に合わせて取捨選択して輸入するのは良いのですが、重要な部分まで捨てることが間々あります。
如何でしょうか? 皆様のコメントを頂ければ嬉しく思います。(続く)
イランにある英国の大使館が一昨日若者達に占拠される事件がありました。
その反発としてイギリスを始めヨーロッパ各国がイランに置いていた大使館を閉鎖し、引き上げることを決めました。
イランが核開発を放棄しないことを口実に経済制裁を続けて来た結果の出来事です。日本人にとっては分かりにくい中近東における紛争です。
しかし、全ての複雑な紛争は、「アメリカは必ず、かたきを取る大国だ!」という前提を置いて観察すると全ての複雑な国際紛争の原因と将来が明快に分かります。全ての謎が氷解するのです。
アメリカは2001年9月11日の同時多発テロのかたきを討つためにイラクを占領し、アフガニスタンを占領し、ついに10年後の今年にいたってパキスタンに潜んでいたビンラーデンを暗殺したのです。
アメリカにたてつき、アメリカの面子をつぶした国は抹殺するのがアメリカという大国なのです。それが悪とか善であるとか議論しても仕方の無いことです。日本でも江戸時代までは仇討は人間の義務として実行されて来たのです。アメリカを非難する資格が無いのです。
それではアメリカは何故イランをかたきと思い込んでいるのでしょうか?
簡単な事です。1979年にアメリカと親交の深かったパーレビ国王を追放し、ホネイニ革命を成功させたからです。アメリカの友人を追放し、反米のイスラムイ原理主義の政権が出来たからです。友人のかたきを討ちたいのです。
その上、1979年の11月にはイランにあったアメリカの大使館を占拠して大使館員を人質にしたのです。アメリカの奇襲部隊が救出作戦をしましたが失敗しアメリカの面子が丸潰れになったのです。
人質が開放されたのは1981年になってからです。
アメリカは1980年にイランと断交し、1984年にはイランをテロ支援国に指定しました。
1995年にはイランへ対するアメリカからの全ての輸出入の禁止を決定します。
その上、2002年にはイランの核開発が発覚しました。これでアメリカはイランへ攻め込む大義名分が出来たのです。
多くのアメリカ人の本音は即刻イランに攻め込み、ホメイニ一派を抹殺し、親米政権を作りたいのです。
しかしアメリカはイラク戦争とアフガニスタン戦争で戦費を使い過ぎているようです。すぐに開戦をする経済的な情勢ではありません。
そこで経済制裁をNATO同盟国、とくに折り入ってイギリスに頼んだのでしょう。
イギリスは全ての国内金融機関にたいしてイランの銀行との取引停止を命じたのです。それを実行したのが11月21日でした。これに反発してイランにあるイギリスの大使館が占拠されたのです。
NATO諸国はイギリスと同様にイランと外交関係を停止し、断交状態になります。
こうしてイランは西側諸国から完全に孤立する事になりました。
さてアメリカを中心にしたNATO軍とイランの戦争は勃発するでしょうか?
急にはしません。ロシアと中国の2つの大国がイラン制裁に反対だからです。その理由はロシアと中国は異なるようです。
このように今後も中近東でいろいろな形の紛争が起きるでしょう。その全ての原因はホメイニ一派によるパーレビ国王の追放に端を発しているのです。
下にパーレビ国王がニクソン大統領夫妻を訪問した時の写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)