後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

雨上がりの公園風景

2011年12月03日 | 写真

3日間、降り続いた冷たい雨が今日の午後2時頃に止みました。北の空には青空が広がっています。小金井公園に家内と散歩に行き、雨上がりの公園の風景写真を撮って来ました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見

2011年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

著者の白崎謙太郎さんが明治20年代に横浜港で盛んにセイリングしていたヨットの写真集の存在を見つけ、その実物を探し出したのです。熱海駅前で歯科医をしていた館野常司氏を訪問し、その写真集の写真を撮ってきたのです。

日本で一番古いと考えられるこのヨットの写真集は米人のラフィン氏が持っていて、後には、末娘のミス・ラフィンが秘蔵していたのです。彼女は親切に歯を治療してくれた歯科医でヨットマンの館野常司氏へ写真コピーを提供したのです。そして白崎さんが遂にそのコピー写真集の写真を撮ってきたのです。

尚、ラフィン氏は明治18年頃横濱に来て、日本女性と結婚し、1931年(昭和6年)に亡くなるまで日本に住んでいました。本人とその息子もヨットマンで日本のヨットの発展に大きな貢献をしたのです。

この写真集は今となっては日本に一、二冊しか無い貴重なものです。白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の冒頭に明治20年代の横浜港にあったヨットのセイリング中の写真を21枚掲載しています。この写真集には当時のヨットの長さやセイル面積などのデータの詳細もあります。

驚いた事に明治19年、横濱ヨットクラブ(Y.Y.C.)の出来た数年後には長さ26フィートから40フィートの立派なクルーザーヨットが沢山居たのです。小型ヨットのディンギーもあります。この頃の横濱では外人が多数のヨットを所有して盛んにレースをしていたのです。日本人は関心を示しませんでした。少なくとも大正時代になるまでは外人だけの遊びでした。下に明治20年代のヨットの写真を5枚だけ白崎謙太郎著、「日本ヨット史」からお借りして示します。

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国家によって束縛される私共の考え方や人生観(4)私は34歳までロシア人を憎んでいた

2011年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

1970年、34歳になるまで私はロシア人を憎んでいました。当時、西ドイツのマックス・プランク研究所で一緒に研究をしていたプルッシュケル博士がその私の考えを変えてしまったのです。

私がロシア人を憎んでいた理由を書けば沢山あります。

ロシア は明治維新以来の日本の不倶戴天の敵国でした。日露戦争では乃木大将の旅順攻略戦で多数の日本兵が無残にも殺されましたのです。

第二次大戦の時には、終戦間際のドサクサに乗じて満州へ攻め込んで、日本人の民間人へ悪辣な事をしたのです。その上、55万人余の日本兵をシベリアへ抑留をし、過酷な強制労働で5万人余も殺したのです。

終戦後に武力占領した樺太や北方4島は絶対に返還しようとしません。

その後の米ソ冷戦状態の間は日本の漁船を数多く拿捕し、北洋のサケやカニの漁獲を邪魔したのです。ロシアの戦闘機が毎日のように日本の領海へ侵入して、嫌がらせをしていたのです。

これでは日本人がロシア人を憎むのは自然ですね。

西ドイツで一緒に研究をしたプルッシュケル博士へ以上のことを話し、私もロシア人を憎んでいると言いました。

それを聞いた彼が驚くような事実を話したのです。

彼の生まれ育った村は東ドイツにあったそうです。村全体がプルッシュケルという姓で、家が60戸ほどあったそうです。中世からの平和な農村だったそうです。第二次大戦末期にロシア兵が攻め込んで来て、老若男女は勿論、赤ん坊まで村民全員を殺したのです。当時10歳だったプルッシュケル少年は、唯一人麦藁の山の奥深く潜りこんで生き残ったのです。それから西ドイツへ独りで逃げ伸びて、大学を卒業し、博士号をとってマックス・プランク研究所で働いていたのです。

私は彼にロシア人を憎んでいませんかと聞きました。いえ、憎んでいませんと言います。そして遠方の景色を見るような目つきになって、ドイツ軍がロシアに攻め込んだ時に1000万人のロシア人を殺したのです。ロシア軍がプレッシュケル村の全員を殺すのは当然なのです。彼は平然と静かに話します。

ドイツ兵も100万人以上もシベリアへ抑留され、日本兵より非常に過酷な取り扱を受けたそうです。殆ど生きて還ってこなかったと言います。

そして最後にプルッシュケル博士が冷静に言いました。「戦争は地震や暴風雨のような自然災害の一部なのです。地球に動植物が居て生存競争をしています。人間もその動植物の一部に過ぎないのです。誰かを憎んだり、恨んだりしても所詮仕方の無いことです」

これで私は悟りました。私がロシア人を憎むのは日本の国策に縛られていたからだと判然と分かったのです。憎むのも好きになるのも大きな意味での自然現象の一部なのです。このブログではロシア人を讃える記事も書きました。下に再録いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

国家を超越したイエスの弟子・・・日露戦争勃発でもロシアへ逃げ帰らなかったニコライの生き方

0432 ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。1861年から51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索するとその生涯の紹介があります。

「山林、杜の人のブログ」の下記のようなニコライに関連する記事があります。
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)