前篇は、渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(1)造船技術者としての幅広い活動 です。
さて、潜水艦の設計担当をしていた渡辺中尉は呉の海軍工廠からシンガポールの海軍工廠へ転勤になります。そしてそこで終戦を迎えました。武装解除と日本軍人の抑留はイギリス軍が行いました。イギリス軍の捕虜になったのですから当然な苦労と屈辱を経験します。しかしそれを上手に受け流し、故郷の下田に復員しました。
すぐに見合い結婚をします。
新婚早々、小型のヨットを設計しました。裏山から材木を切りだして完成します。船名を「ミス・どんがめ」としました。余談ながら渡辺修治氏の息子さんの康夫さんはmissdongameというハンドル名です。そしてそのブログの自己紹介欄にその「「ミス・どんがめ」の写真が出ています。同じ写真はメル母さんの「父とヨット」というブログでも紹介してあります。そのヨットの写真を下に転載させて頂きました。
さて復員し結婚した渡辺修治さんはどうして生計を立てようとしたのでしょうか?はじめは製塩業をしようとしますがうまく行きません。
そこで漁船を設計し、漁師になろうとしたのです。30フィート位の長さの帆走漁船です。5馬力の焼き玉エンジンの付いた漁船です。
この設計の仕方が実に興味深いのです。全国の和船の漁船の形を調べ、船体は和船にして舵とセンターボードとセイルの形はクルーザーヨットの構造にした設計図を完成したのです。
設計には細かな計算を積み重ね、船の重心を可能な限り低くし、浮力の中心と垂直線で重なるようにするのです。そして外洋でセイルだけで風上に登れるように船底を鋭く水中に入るような形にしたのです。マストは前後に2本です。
ここで注目すべき事は、渡辺さんが船大工として船を自分で作っていった事です。
普通、船の設計者は大工仕事はしません。設計者は偉い技師であり、大工は職人なのです。渡辺さんはその差別を無視して船大工の仕事に打ち込みます。船大工の経験をしなければ本当に信頼できる船の設計は出来ないと思っていたに違いありません。
この半分ヨットのような漁船は見事に完成し、「暁丸」と命名されました。そして伊豆の沖で、毎晩イカ釣りに活躍しました。これで生計は立つようになります。
この船は荒天でも外洋を航海できる頑丈な船体と帆走装置が付いていたのです。他の漁船が出漁を止めるような荒天の夜でも渡辺修治船長と漁労長や漁夫を乗せて出漁し、イカを沢山釣って帰ってきたのです。
しかし漁師を4ケ月したところで渡辺さんは相棒の漁労長へ告白します。「私の人生は漁師になることではないと思います。私が生涯したいのは船の設計なのです」。
そうです。彼の天職は船の設計なのです。漁師になって一生を終ることではなかったのです。
そして縁があって横須賀の東造船という会社で設計技師として働き始めるのです。「どんがめ物語」という本の序文に東造船の社長だった小山 捷さんが渡辺さんのことを紹介しています。
東造船ではアメリカへ輸出する大型ヨットから始めて、大型パトロール・ボート、大発艇、まぐろ漁船、鮭鱒漁船、トロール船、などいろいろな船の設計をしたそうです。設計にあたってはそれらの船の活躍する海域へ渡辺さん自身が出て行き、船の動きを実地に研究して常に新しい設計をしたそうです。
渡辺修治さんは造船界のエリートとしてその分野では有名な存在だったのです。後に大型ヨットによる我が国の外洋レースの発展に貢献したので、その事だけがよく取上げられ、渡辺さんはレーサーとして名を残して居ます。しかしそれは渡辺さんの活躍の半分しか見ていないことになります。
この東造船では渡辺さんはアメリカの大型ヨットを作っていますが、アメリカの木造ヨット製造中のアメリカの職人技の素晴らしさに度肝を抜かれるのです。この部分をを読むと日本の和船の安易な作り方が明快に理解できます。私は安易さを非難するつもりはありません。船を作る思想の相違に吃驚しているのです。
その事は続編で説明致します。写真は1967年に渡辺修治さんが設計・製造して、美艇として有名な木造ヨットの「天城」を、息子さんの康夫さんがレストアした艇です。その下の写真が渡辺修治さんが戦後はじめて自作した小型ヨットです。(続く)