セピア色とは我ながら甘過ぎる言葉ですが、実はこれには2つの意味を込めた表現なのです。勿論、昭和27年から29年の高校時代は50年以上の遥か昔になって色あせてしまったという意味もあります。そしてもう一つの意味はその高校は時代遅れの古風な学校という意味を込めているのです。
その学校は旧制の仙台一中を名前だけ仙台一高と変えただけでした。
新制中学の3年を終えた私達が仙台一高に入学したのですが、上級生は旧制の中学生でした。先生も校舎も全て仙台一中のままです。
旧制の中学は漢文とドイツ語を重視し、体育は剣道と柔道だけです。黒い制服にマント姿で、通学には高下駄をはいていました。校風は封建的で野蛮です。しかしその一方、教育程度は高く、ついて行くのに苦しい勉強をしました。先生の教えかたも高圧的で、暗記を強要するのです。試験の度に生徒の名前を得点順に廊下の壁に墨黒々と貼りだすのです。
自由で民主的なクラブ活動を楽しんでいた新制中学から入学した私は急に暗い気持ちになったのです。そして暗い気持ちで3年過ごしました。私の学校生活で高校だけが悪い思い出です。切ない、悲しい思い出が一杯詰まった時代だったのです。
しかし、老人になって考え直して見るとこの考え方は決定的に間違っていることに気がつきました。「ものは考えようによって、どうにでもなる」ということを絵に描いたような一転ぶりです。
高校時代は旧制中学の最後の輝きの中にあったのです。今にして思えばそれはエリート教育の輝きでした。クラブ活動として松島の海をカッターに帆を上げて何度も航行しました。演劇部では効果と小道具を担当しました。科学部ではいろいろな真空管の特性を測定し大きな紙に図面を描いて発表もしました。先生方はお前達はもう大人だから勝手にしなさいと遠くから見ているだけでした。
あとから知ったことですが、当時の全国の県立高校は旧制中学をそのまま名前を高校に変えただけでした。男子校と女子高と別れていて、校風は皆同じようだったと分かりました。
その仙台一高で私は3人の友人と別れたのです。二度と会えない別離です。
だれでも青春の頃の別離は甘く切ないものです。
野田君はフルートを吹いていました。彼の戦後のバラックの暗い家の中で何度か美しいフルートの音色を聞かせてくれました。ガランとして貧しそうな家の中に澄んだフルートの音が響き渡ります。
曲目を聞くとバッハの「トッカータとフーガ」と言います。野田君は色の白い小柄な少年でした。無口で控え目な性格でした。野田君とは高校卒業以来二度と会えません。どんな人生を送ったのでしょうか。「トッカータとフーガ」のオルガン曲を聞くたびに野田君の事を思い出します。暗いバラックの家に響いたフルートの音をありありと思い出すのです。
皆川君はフランスの象徴詩を読んでいました。当時大学生のあいだに流行っていた象徴詩です。彼は私に装丁の立派な象徴詩の本を一冊くれて読んで見ろと言います。彼は私に象徴詩を読む楽しさを教えようとしたのです。
髪がちぢれてロシア人のような風貌をしていました。背丈も高くなんとなくヨーロッパ文化を連想させる雰囲気を持っていました。
高校卒業以来消息が分かりません。私の本棚には彼のくれた装丁の立派な象徴詩の本が一冊残っているだけです。その背表紙を見る度に、彼の人生安らかなれと祈っています。
村木君は演劇部の仲間でした。大川君や佐藤徹君も同じ仲間でした。この仲間達とは高校卒業以来、ときどき会って来ました。お酒を一緒に飲みました。
しかし村木君だけ4年ほど前に旅立ってしまいました。TBS社でテレビディレクターと活躍し、後にテレビマンユニオンの創立メンバーとして有名になります。テレビマンユニオンでは「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしました。名番組を数々送り出したのです。
村木君は物静かな印象でしたが、テレビ界の視聴率第一主義、金銭主義に強く反発して、常に良質の作品を作ったのです。
彼のお葬式は芝の増上寺でテレビマンユニオン社葬でありました。彼の同僚の追悼文の朗読を聞きながら彼の視聴率第一主義反対の炎が燃えるような錯覚を覚えたのです。
このブログでも村木良彦君の追悼文:あるテレビマンの死 を掲載しました。
村木君はあの世に居ます。もうこの世では会えません。しかしテレビの画面にテレビマンユニオンの字が出る度に村木君のことを思い出します。彼とは中学校からの友人でした。彼の家にも何度も遊びに行きました。
こうして高校時代のことをもう一度考えなおして見ると自分にとって楽しい青春の一こまだったのです。
セピア色の我が高校時代になり別離の悲しみもありましたが、その別離は悲しいというより楽しい思い出に変化しています。人生は後でどのようにでも変えることが出来ると思います。そのように確信しています。
あなたの高校時代はどのようなものだったのでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)