後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(4)我が国での外洋ヨットレースを確立する

2011年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

これまでの記事:

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(3)和船と欧米の船の決定的な違いを明快に書いている

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(2)船を造る船大工の技を知りつくした天才的な船の設計者 

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(1)造船技術者としての幅広い活動

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この本の特に驚嘆すべき部分は第10章の「オーシャンレース開始」から第16章の「外洋ヨットの設計」までの外洋ヨットレースに関する部分です。

昭和23年に渡辺さんは初めて大島までの外洋レースにアメリカ人船長のもとで参加したのです。「渡鳥」という49フィートのケッチでフォルスターさんというアメリカ人が注文し渡辺さん達が作った艇でした。葉山から初島を回り大島を回り、葉山に帰ってくる100海里のコースです。17艇が参加し、3艇が日本人の艇で残りはアメリカ人の艇でした。

しかし「渡鳥」はトップセールが壊れてしまい途中で棄権します。

その後、渡辺さんは自分で設計した外洋ヨットを次々に作り、外洋レースに参加したのです。この本の最も興味深いとことろはヨットの設計によって外洋での性能が明快に変わるという事です。設計の良し悪しがヨットのスピードと復元力や荒れる波へ対する強さが決まるのです。スピードを上げようとすれば船の底に固定する鋼鉄製のキールを小さくしなければなりません。スピードは上がりますが復元力が小さくなって船の安定が悪くなります。少しの荒天でも棄権してエンジンで帰港しなければなりません。レースのコースを完走しなければ負けです。

このように相反する船の要求を全て勘定に入れて、外洋レースに勝つヨットを設計しなければなりません。何日も夜を徹して走るので、非番のクルーがゆっくり眠れる快適なキャビンも重要になります。

渡辺さんは次々に外洋ヨットを設計、製作し、外洋ヨットレースに参加し、自作したヨットの性能を確認します。そして改良を重ね最良のヨットを作り上げのです。

その一例が天城という名前の有名な木造艇です。下にそれをレストアした木造艇「AMAGI]の写真を示します。

この設計の改良と、外洋での性能の因果関係が明快な話になっているので感動的なのです。以前の記事で、渡辺さんは「船の設計の天才」と書きましたが彼は努力する天才なのです。

そして私がもっと驚いた事があります。渡辺さんは昼間は東造船という造船会社で漁船や鋼鉄船などの実用船を忙しく作っているのです。

夜に帰宅してから、自宅の庭先で自分のヨットをコツコツ作っていったのです。10艇も作ったのです。そして子供も育て円満な家庭を持っていたのです。

ヨット製作は夜に行うロマンチックな趣味だったのです。

その上、もう一つの重要な事は渡辺さんが日本の外洋ヨットレースの日本オーシャンレ-シングクラブ(NORC)という組織を作ったことです。

そして外洋レースのハンディキャップの計算方法を確立したのです。

外洋ヨットレースには大小さまざまなヨットが参加します。大小の違いだけでなく復元力の違い、キールの有無、水密閉性のキャビンの有無、セール総面積の違いなどなどがあります。つまり性能の大きく異なる船が一緒にレースをするのですから公平なハンディキャップを計算してレースの結果を補正して順番をつけます。

例えて言えば、サラブレット馬も農耕馬も木曾駒も一緒くたに走ってレースをするようなものです。走る速度の差とスピードの持続時間を考慮に入れてハンディキャップを計算し到着順を補正するようなものです。

ヨットの場合のハンディキャップの計算は非常に複雑です。ヨットの設計能力の持ち主でなければその複雑な計算が出来ません。更に机上の計算の間違いを外洋レースに何度も参加して補正しなければなりません。

渡辺さんだからこの計算が出来たのです。そのお陰で日本に初めて外洋ヨットレースが公平な審判の出来るスポーツとして受け入れられたのです。

この功績は絶大です。渡辺修治さんの一生は感動的です。

さて「渡辺修治著「どんがめ物語」の内容」と題する連載記事はこれで一まず終りに致します。自分がヨットに26年余も乗っていながら外洋レースに参加したことがありません。その為、この本の魅力を充分お伝え出来なかったことを非常に残念に思っています。どうぞお許し下さい。最後にいろいろ補足的な情報をご親切に送って下さいました、息子の渡辺康夫さま、その奥様の直美さまへ深く感謝いたします。(終り)

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季節の風物詩・・・年末の大掃除の今昔

2011年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

あれは経済の高度成長の前の風物詩でした。

年末になると何処の家々も一斉にタタミを上げ、庭に出して竹でバタンバタンと叩いていました。タタミからは一年中吸い込んだ細かな土埃が煙のように出て来たものです。力が要るので男衆の仕事です。

家の中では主婦と女中と娘たちがタタミの下に敷いてあった古い新聞紙を新しいものに取り換えます。古い新聞を読んでいて、仕事の手が停まっている光景もありました。

女衆は拭き掃除。男衆はササ竹を纏めた速製の箒で天井のスス払いをします。蜘蛛の巣が出来ていてそれに煤や綿ゴミがまつわり付いています。

家中の大掃除が一通り終われば、男衆は庭の掃除、とくに縁の下の掃除も含めて綺麗に掃き清めます。女衆は障子の紙の張り替えにとりかかります。これがなかなのおお仕事です。うっかりすると手伝わされます。

そんな時は庭に残っていた落ち葉やゴミを集めて焚火をします。落ち葉の燃える良い匂いがします。兎に角、うっかり家の中に入るといろいろと手伝う羽目になります。

「大掃除をしないとお正月が来ないよ」と言いながらどの家々でも大掃除に励んでいたのです。それは何故か心が楽しくなる季節の風物詩でした。

それが次第に消えて行ったのは経済の成長で真空掃除機が普及したからです。タタミの目に入った細かな土埃を毎日吸い出してくれるのです。その上、道路が舗装され土埃が次第に無くなって行ったのです。

その上、エアコンが普及し、室内の綿埃を吸い取ってくれるのです。エアコンのフィルターに綿埃が沢山付くことを思い出して下さい。

タタミの敷いてある部屋も減りました。結果として年末にタタミを上げて竹で叩く必要が無くなったのです。同様に天井の蜘蛛の巣もなくなりました。煤竹で取ることもなくなりました。障子の数も減りました。庭の焚火も禁止です。

それでは年末の大掃除の習慣は無くなったのでしょうか?

それが現在でもあるのです。家や庭の大掃除は必ずします。本棚や食器棚の整理整頓をします。床の雑巾がけもします。数少ない障子の張り替えもします。

それらが終わらないとおせち料理にとりかかれないのです。お正月が来ないのです。昔のように男衆と女衆の大掃除の分担がはっきり別れていません。しかし何となく今だに分担が別れています。別れ方は家々によって異なりますが。

こんな年末の風物詩を思いついてのは下に示したような年末らしい琵琶湖の風景を見たからです。琵琶湖の周辺は京都に近く、いろいろな古い習慣が残っています。

きっと年末の大掃除も昔風に変わらずに、現在もしていると想像したくなります。いつも写真をお借りするちひろさんのブログから転載しました。心良く貸してくれて有難う御座いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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出典:ちひろさんにブログ(紫さんのブログ):http://ameblo.jp/yumenosannpomiti77/