後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

冷却水が止まれば原発が爆発すると何故誰も想像しなかったか?・・・全く残念な事です

2011年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

地震があれば核燃料棒の間に瞬間的に核連鎖反応をとめる減速材の棒が油圧で入るから原発は止まる。だから安全だとだけ、繰り返し、繰り返し教わりました。

一体、原子炉の専門家達もそのように理解し、信じていたのでしょうか?

水素爆発のことは、どうも誰も知らなかったようです。

福島原発が爆発したとき皆が異口同音に水蒸気爆発だと言っていたのです。

それが数日してアメリカの原発技術を良く知っていた人がそれは水素爆発だと明快に指摘したのです。

水蒸気爆発と水素爆発では爆発力に雲泥の差があるのです。建屋が粉みじんになれば原子炉の格納容器も割れ目が出来るのが当然です。

水素はどこから来て、空気と混じって発火したのでしょうか?

核燃料棒の被覆材 のジルコニーム金属が、循環が止まった水と反応して水素ガスを多量に発生するのです。核燃料の自然崩壊熱で炉心はますます高温になるのです。

炉心で多量に発生した水素ガスは格納容器の隙間から漏れ出し、建屋の内部に充満し、何かの電気火花で発火し、大爆発したのです。

昔、高温領域の化学反応の研究をしていた小生にとっては簡単に理解できる単純至極な現象です。

それを何故原子力を専門にしていた科学者や技術者が分からなかったのでしょうか?

3つの原因が考えられます。

(1)アメリカの安全工学は日本より格段に進歩していた時代にジェネラル・エレクトリック社の原発装置を輸入したのです。従って全ての日本人は原発は安全だと盲信してしまったのです。

(2)一般に日本人は前例主義です。爆発の前例が無ければ爆発しないと無意識に考えてしまう癖があります。自分の頭を使って深く考えることをしないのです。科学者も技術者もその傾向があるのです。危険極まりない科学の風景です。

(3)しかし少数ながら自分の頭で考え、電源が停って、冷却水が止まれば水素が発生し、大爆発すると考えた人も居たようです。

一方、政府も電力会社も原発の推進をしていたので、その危険性は伏せて置きたいのです。危険性を指摘する人々を配置転換したり、辞めさせたりして情報が明るみになる事を防いだのです。

このような日本独特の状況が相重なって「原発の安全神話」が出来あがってしまったのです。まったく残念です。

考える度にムラムラと怒りの感情が煮えたぎります。エリート教育を受けた原子科学者や技術者が自分の頭で考えなかった事を思うと怒りが湧いてきます。それは重大な怠慢なのです。この怠慢の罪の重大さも現在もエリート教育を受けた原子科学者や技術者が感じていない様子なので怒りを感じるのです。

そしてもっと深い原因は日本の学校に於ける「科学教育」の間違いにあるのです。

科学知識の暗記や数式の暗記だけをさせて、自分の頭で考える訓練を軽視しているのです。科学的に考える訓練は数多くの練習問題を解くことで身に付くのです。

私事で恐縮ですが、私がアメリカの大学で受けた訓練はそのようなものでした。

日本の大学では教授に教わった事柄を「大学ノート」に必死に書きとり、試験の前にその大学ノートを丸暗記するというものでした。

原子炉の水素爆発はかえすがえすも残念です。日本の科学教育を根本的に変えないとまた同じような悲劇が起きると思います。

皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。(終り)


碧く光る葉山の海、そして白く輝く船達の風景をお楽しみ下さい

2011年12月14日 | 写真

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・下の漁港は昔、鐙摺港(あぶずりこう)という小さな漁港でした。現在は葉山港ともいいます。日本のヨットの発祥の地ということになっています。

上の写真はその鐙摺港の外に沖がかりしているヨットです。以前は10艇くらい沖がかりしていて美しい風景でしたが、景気が悪くなったせいかたった1艇だけになってしまいました。

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鐙摺港には相乗りの釣り船とヨットの両方が混在して係留されています。

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・港の内側は営業用の釣り船で、外側に下の写真のようにヨットが係留されています。

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鐙摺港の東隣にはいろいろな意味で有名な葉山マリーナがあります。下の写真は陸置きされているクルーザーヨットの列です。その向こう側にも碧い海が広がっています。

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・ 昨日、鎌倉へ行く途中に逗葉道路の渚橋の手前で、左(東方向)に折れて、久しぶりに葉山の海を眺めて来ました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。


私の鎌倉物語(1)静かで質素なお寺巡り

2011年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

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・建長寺の山門です。昨日撮って来ました。

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・上は庫裏で、下は鐘楼です。

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鎌倉には大体120のお寺があります。鎌倉時代になる前の仏教は貴族や上流階級の為のものでした。鎌倉時代になって、ある種の「宗教改革」が起き、武士や庶民の為の分かり易い仏教がいろいろ出来たのです。

この120のお寺の大部分は日蓮宗派、円覚寺派、建長寺派と三分割されます。京都の宗派のお寺もありますが、数が少ないののが鎌倉のお寺の特徴です。

鎌倉にあるお寺はそのような性質のお寺なので質素な作りです。華美ではありません。花々が植えてあり、庶民がお寺参りをして楽しめるようにもなっています。

鎌倉はお寺の他に若い人向けの店やレストランがあり人気の観光地です。週末は混んでいて歩けないくらいです。ですから、静かに古いお寺を巡り歩いて鎌倉時代の仏教の雰囲気を味わう為には平日に訪問するのが良いのです。

検索すると鎌倉のお寺の情報が沢山あります。下に示した地図とURLはお薦めのHPです。

それはそれとして、これから「私の鎌倉物語」を始めたいと思います。

初めて鎌倉を訪れたのは1960年の夏でした。家内と初めてのデートで北鎌倉駅に降りたのが第一歩でした。当時は改札口もない簡単な駅で、そのまま線路を渡り円覚寺に続いていました。大学生時代に一通り京都のお寺を見ていました。ところが、円覚寺は、「雰囲気」が違うのです。境内は広く建物も沢山ありましたが、やさしい雰囲気があります。京都のお寺のようにその豪華さで人をおどかしたり、威圧したりしていません。お釈迦様の慈悲がなんとなく流れているのです。この初めての印象は鎌倉のどのお寺に行っても同じでした。建長寺だけは別にして。建長寺だけは鎌倉幕府の権力の匂いがします。私だけの間違いかも知れませんが。

その最初のデートの時、円覚寺から歩いてアジサイで有名な明月院に寄り、建長寺へ行きました。その後は鶴ヶ岡八幡宮へ参拝し、境内の神奈川県立美術館で絵を見ました。その後は八幡宮の参道の段葛の道を歩いて鎌倉駅に出ました。江の電に乗って江の島へ行ったものです。こんな個人的な事を書いても仕方がないので止めます。

その後の50年間、鎌倉へは何十回も行きました。家内が鎌倉で生まれで、昭和20年の8月に疎開するまで、鎌倉の御成小学校に2年生まで通っていたのです。その子供の頃の楽しかった思い出がある土地です。

どんなに機嫌の悪い時でも鎌倉に行けば幸せそうに笑って帰ってきます。ですから鎌倉は私共夫婦の仲を、再び良くする、「縁結び」のような土地なのです。今日一人で「海を見て来る」と言って出た私が帰宅して、「鎌倉へ行って来た」と言った途端家内がとても悲しそうな顔になり「鎌倉へ行くなら一緒に行けば良かった、庭掃除などしてなくても・・・」と言い出したのには困りました。お土産の鳩サブレーを出したら機嫌が良くなりましたが。

最後に鎌倉へ東京から行く簡便な方法を書きます。

電車は東京駅の地下深くの総武線・横須賀線の駅から横須賀線に乗ると、乗り換え無しで鎌倉駅へ行きます。最近は新宿駅からも乗り換え無しで横須賀線に乗り入れ、鎌倉駅まで行く電車があります。

早く行くには、東京駅から東海道線で大船駅まで行き、そこで横須賀線に乗り換えて鎌倉駅に行くのも便利です。藤沢駅まで東海道で行って、江の電でゆっくり行くのも楽しいものです。そして小田急線で江の島へ出て、江の電で鎌倉へ行く方法も楽しいものです。

さて車ですが、何せ鎌倉は道が狭くて週末は渋滞で動きがとれません。しかし平日は渋滞がありません。

車で鎌倉に行く時、最高に便利な方法が一つあります。

第三京浜や首都高を使って、横濱・横須賀高速道路(横横道路)に入るのがコツです。

その逗子の出口を出て、逗葉道路を逗子の方向へ行きます。渚橋を渡るといきなり広い海に出ます。逗子の海水浴場です。新宿湾とも言います。その海岸道路を4kmだけ走ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮へ真っ直ぐ続く道との交差点に出ます。そこを右折すれば鎌倉の中心街に入れます。有料駐車場は中心地に沢山ありますが、平日いつも空いている駐車場は八幡宮の左手の道沿いにあります。

横横道路は平日なら何時も空いています。逗葉道路もその先の由比ヶ浜の交差点までも平日はガラガラです。ただ一つ渋滞している所は八幡宮の前のT字路の交差点だけです。

鎌倉のお寺には有料駐車場がある所が結構多いので平日なら車もお薦めです。

下に鎌倉のお寺の地図を掲載して起きます。ご自分なりの鎌倉をお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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地図の出典は、http://www.kcn-net.org/kokenchiku/index.html です。