この秋に長野と新潟の県境の秘境、「秘境、秋山郷」の旅に行きました。上の写真にあるような小型バスがやっと通れるような山道を根気よく分け入ると益々紅葉が綺麗になっていきます。
そして、2番目の写真の山々の奥には13もの村落が存在していたのです。
案内人が、「江戸時代の飢饉で村落全員が死に絶えたところもある」 と言います。衝撃を受けました。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。改めて見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
帰宅してから江戸時代の秋山郷の生活ぶりを記述した「北越雪譜」を丁寧に読み直してみました。<o:p></o:p>
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。
フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。<o:p></o:p>
飢饉で一村が全滅した時もあったのです。その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
考えてみると険しい山々の連なる山奥には人間の食べられる野生の植物や木の実は非常に限られた量しか生育しません。わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。そかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
山の幸とよく言いますが、わずかな春先の山菜や秋のキノコや栃の実だけです。それも冷害で、取れない年が何年に一回巡りくるのが山奥の秘境なのです。
私はいろいろ考えています。何故、ヤギやウサギを飼育し、夏に太らせて冬に食べないのだろうかと考えます。ヤギやウサギは草食なので山の木々の若葉や下草で育つはずです。それを食べなかったのは江戸時代までの仏教の戒律だったのかも知れません。四足の動物は殺して食べてはいけないのです。場所によってはイノシシをや山クジラと称して、コッソリ食べていた地方もあったのに秋山郷ではそんな話も聞きませんでした。
秋山郷のことをあれこれ考えていましたら熱海の沖にある初島という離島の江戸時代からの生活を思い出し、つい比較してしまいました。下に熱海ー初島間の客船の上から撮った初島の写真を示します。
そこは温暖な海に囲まれた島で、四季折々、魚貝が手に入ったはずです。
それでも生活は厳しいいので島全体の家の数を41家に厳密に制限した歴史があったのです。
熱海から船で30分の初島には現在も41家族しか住んでいません。
長男が跡を継ぎ、娘だけの家では長女が婿をとり、家の数を一定にする伝統が現在でも生きています。それ以外の子供は島を出ます。
近海漁業と畑作だけの島では41家族しか生きて行けないからです。<o:p></o:p>
船が島に着くと火山灰のような保水力の無い土が島を覆っているのに気がつきます。作物が出来にくく、真水に困る土地と分かります。これでは生活が苦しい筈と心が痛みます。<o:p></o:p>
しかし島はあくまでも平和です。明るい雰囲気なのです。立派な家も貧しげな家も混在していません。41家族に貧富の差が無いようです。漁港に引き上げられ、並んでいる41隻の小型漁船は下の写真が示すように、みな同じ大きさです。
漁期の申し合わせによって平等に魚や貝や海藻が行き渡るようにしているそうです。
苦しいとはいえ秋山郷の村落の生活の悲惨さに比較すると天国のような生活です。
下にこの初島の春の光景を示します。
「海の幸」の対句として「山の幸」という言葉があります。しかし海の幸が圧倒的に多くて、山の幸は僅かばかりです。これがこの世の現実です。一体神様は何故このような不平等を作るのでしょうか?不思議です。不可解です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)