後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

湿原の出来方と箱根、仙石原湿原の景観

2012年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根の仙石原の低い平地は湿原になっています。水を透うさない泥炭層が地下に広がっているからと考えらています。

芦の湖の湖尻から流れ出た早川は仙石原で広がり湿地帯を作ります。

そこに箱根湿性植物園を作ったのです。

大昔に、ここは浮草やヨシやガマに覆われていたと想像されます。これらの植物が枯れて水の底に沈み、次第に「泥炭層」と形成するそうです。この泥炭層は水を透過しないので湿原になると言われています。(出典は、http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200309/special_04.html です。)

日本で一番大きな湿原は釧路湿原です。しかし日本のあちこちに小規模な湿原が沢山あります。

気温の高い地方の湿原は稲の生育にも適しています。ですから平野にある湿原の多くは弥生時代から少しずつ水田へ変えられて行きました。

現在残っている湿原は気温の低い寒冷地にあります。高原や北海道に湿原があるのはそのような理由によるのです。

そんな歴史的な背景を知った上で箱根湿原の景観をもう一度見てみましょう。

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この箱根湿性植物園を散歩しながら何故稲作が出来ないのか素人ながら考えていました。

決定的な理由は標高が高くて稲作には寒冷過ぎるのでしょう。

釧路湿原も栂池湿原も尾瀬湿原もみな寒冷地です。

利根川河口の霞ヶ浦近辺には広大な湿原が広がっていたのでしょうが、現在はえんえんと続く稲作の水田と蓮根の水田になっています。

弥生時代からの人間の水稲栽培に対する情熱と努力に頭を垂れざるを得ません。

こんな観点からも仙石原湿性植物園を楽しんで来ました。

写真は11月5日に撮りました。(終わり)


私の個人的な体験からオバマ氏の大統領再選を喜ぶ

2012年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

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私は1960年にアメリカのオハイオ州コロンバスに留学しました。そして毎日、毎日、通学の途中で白人による黒人への蔑視、そして差別の具体的な姿を見ました。

戦後、アメリカは自由と平等の国と教わって、それを信じていた私にとって、黒人差別を直接見ることは大きな驚きだったのです。

そしてその差別は黒人に対するほどではありませんでしたが、日本人にも向けられていたのです。

1960年頃のアメリカの人種差別で嫌な思いを体験した私は、オバマ氏の大統領再選を心から喜んでいます。

ところで今回のロムニー氏とオバマ氏への投票結果は彼らが白人と黒人であったことによって大きな影響が受けなかったのでしょうか?

今日の読売新聞の8ページに今回、オバマ氏とロムニー氏とへ投票した選挙人を年齢別、性別、人種別、学歴、年収別、宗教別などによって分析した一覧表を掲載しています。

それを見ると人種別の項目以外はオバマ氏とロムニー氏がほとんど同じです。

所が人種別だけは大きな差があったのです。

黒人の93%がオバマ氏へ投票し、6%だけがロムニー氏へ投票したのです。

そしてアジア系の73%がオバマ氏へ26%がロムニー氏へ投票しました。

中南米系の71%はオバマ氏、27%がロムニー氏です。

それでは白人どうでしょうか?

39%がオバマ氏へ、そして59%がロムニー氏へ投票したのです。

以上の統計は約25000人の投票終了者の個別調査の結果です。

すると今回の大統領選はオバマ氏が黒人だったから勝利したと言っても間違いではありません。

黒人やアジア系や中南米系の人々の圧倒的に多くの人がオバマ氏へ投票したのです。

おおやけの場での人種差別は無くなったアメリカでも、個人的な場面ではやはり人種差別が残っていたことを暗示させます。人種差別の根深さに驚きます。

 複雑な想いと共に今回のオバマ氏の大統領再選を心から喜んでいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

なお下に参考資料として1960年のころの黒人差別の実態とその後の差別撤廃運動を示します。

======黒人差別と黒人差別撤廃運動===========

◎50年前のアメリカの黒人差別の実状

1960年から二年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住んでいました。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言うのです。それ以来、白人席の末席に座るようにしたものでした。 

コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていました。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人は立ち入り禁止です。 

オハイオ州立大学には黒人学生が居ませんでした。居たとしても、その数は圧倒的に少ないので私は見た事がありませんでした。教授は当然、皆白人でした。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人には禁止されていた職種でした。

初めのころはこのような厳しい差別に心が痛み暗い気持ちになったものでした。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになるのです。 人間とはそのようにいい加減なものなのです。

日本の芝居ではよく黒子が舞台へ出入りしますが、だれも気にしません。黒人をこの黒子と思えば黒人が見えなくなるのです。この秩序は慣れてしまうと実に快適です。

ある時、アパート代の安い黒人街の物件を見に行くと、案内の黒人女性は柔和で大変親切です。アパートもかなり立派で、しかも安いのです。 

引っ越そうとして大学の白人学生に相談したところ、ものすごい勢いで反対するのです。黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て、食べ物をねだる。勉強なんかできないと言うのです。

後で分かったのですが、本当の反対の理由は黒人差別の秩序が壊れるのを恐れていたのです。 

アメリカは自由と平等の国と聞いていましたが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。

@黒人差別克服への努力、そして色々な試みの挫折 

その後、ベトナム戦争がありました。黒人兵は危険な最前線に出て活躍したので、白人が黒人を見直し始めたのです。

国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がりました。リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師でした。

そのキング牧師の暗殺された日を休日とし、哀悼の意を表する州が数多く出来ました。私の住んでいたオハイオ州もそうです。全官公庁・学校が休みにして、キング牧師を記念する日になっています。 

1990年前後にもコロンバス市に二年間住みました。

すると流石にバスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座るようになっていました。オハイオ州立大学も黒人学生が三分の一くらいになっています。周辺のレストランの黒人席と白人席の区別はなく、混じって座っているではありませんか。黒人の差別は非常に弱くなっていたのです。 

同僚のR教授とビールを飲みながら、「30年経って住んでみると、黒人差別がなくなっているので驚いた」と言うと、R教授は「先祖の犯した罪は子孫が償う。公共の場所での差別はなくなった。しかし、居住地は相変わらず南と北に分離されている。黒人学校と白人学校は依然存在している」と言うのです。 

そして、R教授は悩ましそうに続けます、「表面的な差別は撤廃できるが、心の中の差別は簡単になくならない」と。

私:「でも、先日、白人と黒人の若者が一緒に楽しそうにバーベキューをして騒いでいたが…」

彼:「そのような慈善活動をする若者グループが多くあり、混合ダンスパーテイなども実行する。しかし、帰る家は別々の住宅街にある」。 

コロンバス市では、黒人小学校と白人小学校の児童分布を平等にするため、毎日、バスを黒人街へ黒人児童を迎えに行かせ、白人小学校へ送り込む。白人住宅地域へもバスを送り、その逆を行う。こうしたバス送迎を徹底し、白人と黒人の児童が完全に交じり合った教育を三年間続けたそうです。 

しかし、黒人の子供には特有の遊び方があるのです。それと同様に、白人の子供にも友達同士の付き合い方が黒人の子供と異なっています。

大人の偽善的な試みの犠牲になるのは両方の生徒だったのです。この試みは両方の子供の反対に遭い挫折したそうです。3年間だけで終わったのです。

@黒人差別撤廃への社会運動の成功

1990年以後にもアメリカ各地を旅行しました。

色々聞いて見ると、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならないという規則がるのです。

テレビやマスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返しています。

その結果、白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住むようになりました。

その頃から黒人の市長があちこちで選ばれるようになったのです。そしてブッシュ政権では黒人女性のライス国務長官が大活躍しました。

そしてついに黒人のオバマさんがアメリカの大統領として選ばれ、4年間の任期を全うし、再び大統領に選ばれたのです。

公民権運動のさなか銃弾に倒れたキング牧師は天国で大いに喜んでいるに違いありません。

(終わり)