後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

静かな晩秋の風景を撮りながら何故か幸せな気分になる

2012年11月03日 | 写真

今日は陽射しも暖かく散歩日和でした。野川公園の晩秋の感じを写真に写し撮ろうとして、あれこれ考えながら歩き回りました。

土曜日の午後で、沢山の子供たちがバーベキューをしたり、野球の試合をしていています。楽しげな子供の声が響いています。

子供の数があまりにも多いのでそちらには近づかないで静かな道を選んで散歩しました。

遠方から子供の元気な声が聞こえているとほのぼのと幸せな気分になります。

特に戦後の荒廃した日本を知っている身にとってはしみじみと幸せになります。それにしても良い時代になったものですね。

写真をお楽しみ頂ければ私もいっそう幸せです。

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大津波に襲われる前の石巻と最近の写真を比べて下さい

2012年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

宮城県石巻市の北上川の河口の航空写真です。

大津波に襲われた村落や水田の、津波前の写真と一年後の写真です。

流された村落と水田のあったところは一年後になっても一面の海になったままです。

下の2枚の写真を注意深くご覧になって下さい。

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上の写真の左の海側には緑豊かな松林があり、その中に数十軒の家々が見えます。この松林の上の方には美しい田圃が広がっています。

真中は北上川の河口で、その右岸にも家々が明瞭に見えます。

この美しい農村を大津波襲ったのです。下の写真が1年後の状況です。

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何も無くなりました。ただ一面に水が広がっているだけです。

これでは何年たっても復旧は不可能です。

実はこのように地盤沈下で海水に漬かったままの地域があちこちに出来てしまったのです。土地だけでも残ったところは不幸中の幸いと諦めるほかありません。

もう一つ、石巻市の雄勝町大浜の津波前の写真を示します。

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そして下は一年後の状況です。すべての美しい建物が流されて無くなったままです。

復旧の手がついていない様子が分かります。

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政府の復興予算が被害地の復興活動を支援しないで、関係の無い目的に流用した官僚達に上の写真を仔細に見て、考えて貰いたいのです。大きな怒りを感じます。そして深い溜め息が出るばかりです。何という官僚達なのでしょう。

写真の出典は、東北建設協会が編集した「津波被災前・後の記録」(河北新報出版、2012年8月11日発行)です。宮城・岩手・福島のいろいろな地域の詳細な航空写真集です。

この写真集は2100円で、ネットでも購入出来ます。

数週間前に仙台に住んでいる弟が東京まで持って来てくれた部厚い写真集です。

先月は私自身で被災地を訪問し、取材をして来ました。その報告記は、大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。 です。下にその抜粋を紹介してあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

===大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。 の抜粋===

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私は独りで朝早く、仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先、石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっているそうです。

高城町駅で降りると一台のタクシーしかいません。中年の親切そうな運転手さんが津波の被災地を案内してくれました。東松島市の東名(とうな)町に行きます。自分の家のあった町だそうです。

運転手さん自身の家も流されて何も無くなったと言います。幸運にも家族だけは生き延びたと言います。

東名駅に着くと、それは下のように幅の狭いホームが残っているだけです。

鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたと言います。そして数年先には向こうの山の中に新しい線路を作るそうです。

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この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。

踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民がすんでい村落です。260人が犠牲になったそうです。

一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。

下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。

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運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で枯れているのです。

私は実名で真面目にブログ記事を書いています。出来たらお写真を出させて下さいと頼みました。よいですよと快く応じてくれたのが下の写真です。運転手さんの悲しそうな表情をご覧下さい。

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いろいろな話を聞きましたが、最後に彼の家族の助かった理由を書きます。

大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。

津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。

もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。ですから大津波の被災地はちゃくちゃくと復興が進んでいると思っています。

しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。

三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。

そしてまだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでいて、将来の計画も無い暗然たる毎日を過ごしているのです。

被災地の復興はいまだ進まず。何も進んでいない所のほうが圧倒的に広いのです。この事実を忘れないようにとこの記事を謹んで、皆様へお送りいたします。(終わり)