この前の記事(戦後のアメリカ留学の記録・・・その喜びと苦しみ)で黒田さんが南米へ渡る移民達と一緒にアルゼンチナ丸に乗って11日を費やしてサンフランシスコへ上陸したとことを書きました。そこでこのアルゼンチナ丸や戦後の南米への移民について調べ始めました。
そうしたら戦前、戦後の移民の歴史をまとめた詳しいブログ記事を見つけましたので以下にご紹介いたします。まずアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。出典:http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571
そして南米へも移民の歴史を書いたブログを以下にご紹介いたします。未知の南米大陸へ移民する人々の勇気と決断には頭が下がります。その決断の後で乗ったアルゼンチナ丸での生活の記録が載っているブログです。そしてその後の開拓の様子も報告してあります。
このよう戦後の移民の実態を記録した文献は歴史的に大変貴重な文献と考えられます。
戦後の復興にばかり目をやらないで海外における日本人の活躍も忘れずに歴史に刻んでおくべきと思います。海外に住んでいる日本人をもっと、もっと重要に思うような視野の広い文化を持ちたいと祈っています。
これから少しずつ日本人移民のことを調べて行きたいと思いますので、どうぞ情報をお教えてください。
======『ブラジル戦後移民』 50年の記録 ======http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php
私たち、あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス港下船)の同船者681名は、平成14年5月11日で40年を迎えました。当時のあるぜんちな丸第12次航の船内新聞「さくら」の編集責任者をしていた私と船内ニュース班の仲間として手伝って呉れた編集員が中心になり船内新聞の40年後の特別号、号外の形で戦後移民40年の移住史の一部を皆で書き残そうとの企画が持ち上がり、出来れば印刷、出版もと考えていましたが、時間的な問題、資金面の問題もありせめて寄稿して頂いた貴重な記録、原稿を大事にし、書き物にして後世に残して置きたいとの切なる願いから、当時のガリ版刷りの船内新聞の一部、黄色くなった名簿、懐かしい写真等を文明の利器PCを使い資料のDIGITAL化による保存を考えついた次第です。これらの無形に近い数多くの資料、写真等を我々同船者全員の資産として共有し、後世に残して行く事、民族の移動、移民、移住問題、個人の人生の選択等に関心を寄せる人達、特に海外に夢を馳せる若い人達に読んで頂ければとの気持ちでこのホーム・ページを開設しました。
平成14年5月にこのHPを正式公開し既に10年5ヶ月の歳月が過ぎました。今年の5月で私たちも着伯50年を迎えました。この50年に及ぶ戦後移住者の定着の過程、移住者としての記録を書き残すという作業は、編集者の私の力不足、時間的制約等に起因して思うような成果が挙がっていませんが、2008年は、日本移民100周年を日本とブラジルの両国で盛大に祝い日伯、特にブラジル社会で日本移民の100年に渡る歴史を認識して頂き、マスコミにも大いに喧伝されました。これからのブラジルに置ける我々日本移民は、200年に向かいどのように生きて行けば良いか問い掛けられる立場にあります。特に2009年にはアマゾン移民の80周年の節目の年に当たり、トメアスー、べレン、マナウスに置いて9月に盛大な式典が行われ在伯県人会主催の『第32回移民のふるさと巡り』の慶祝団232名の一員として参加させて頂き北伯に入られた同船者の皆さんと共にお祝いできたことはブラジルに住む者として大変幸せに思いました。
また昨年、2011は、南伯リオグランデドスール州の戦後移民55周年に当たり8月20日に初めてリオグランデ港に降り立った23人の内、州内に健在の9名の先駆者に州議会よりメダルを送られる式典を日本文化祭に実施しました。
本日、250万回アクセスを記録したのに合わせこのTOP PAGEの一部を書き換える事にしました。同船者仲間、ブラジルの領域を大きく超えて現在では、世界150カ国以上の国々からのアクセスが記録されており、2007年10月11日(水)になんと一日に6575回のアクセスがありました。10年5ヶ月で250万回のアクセスを記録、ブラジル総合サイトとして育って来ており、その管理運営にも大袈裟に云えば社会的な責任も伴うのではないかと身が引締まる思いがしております。
しかしながらアクセス数がどんなに増えようが基本的には同船者681名の戦後移住者としての生き様を書き残して行くという大要は変わりませんが今後はあるぜんちな丸で着伯した多くの仲間(合計11,102人)、ひいては戦後移住者全員、移住と直接関係の無い日本企業短期派遣社員、留学生、研修生、旅行者と幾らかでもブラジルと繋がりの出来た多くの方にブラジルを語って頂きインタネットを通じて少しでもブラジルに関心を持ちブラジルを知りたいとのお気持ちを持たれた時には『私たちの40年!!』にアクセスすればその目的が果たせると云った総合『ブラジル学?』のサイトとして育って行けばと念願しております。更に私達の同船者が入ったボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの仲間の様子、それらの国以外の移民の歴史(明治初期のメキシコ榎本移民、ハワイ移民、ペルー移民、戦後のドミニカ移民等)についても記録を集めて行きたいと思います。
=======以下省略==============
昨日、横浜で大学の同級会がありました。1958年に仙台の金属工学科を一緒に卒業した30人ほどの同級生のうち関東地域にいる15人ほどが4ケ月毎に集まって昼食会をするのです。
昨日集まったのは6人だけでしたので、皆が現職の時どのような仕事をしていたか丁寧に聞きました。技術者たちがどのように日本の高度成長を支えたか記録したいと思ったからです。
聞き出してみると、それは世に知られていない戦後史の一断面です。このような断片的な記録でも後世の役に立つと考え以下に簡略にご紹介いたします。
まず新日本製鐵で溶鉱炉の生産性を非常に増加させた製鉄技術者のGNさんの話です。
1958年にGNさんが入社した当時は溶鉱炉1本で一日に生産出来る鉄の量は1000トンだけでした。それが定年で退社するころには毎日10000トンも出来るように技術改良をしたそうです。溶鉱炉1本あたりの鉄の生産量が実に、10倍になったのです。
そのためには溶鉱炉の直径を大きくし、内部を高圧にして空気の吹き込み量を増大したのです。そうするとコークスの燃焼が急速になり鉄鉱石の還元が早くなったのです。
空気を吹き込む羽口からは重油や石炭粉を吹き込む技術も開発しました。
このような先進技術はソ連から購入したそうです。当時の溶鉱炉技術はソ連が世界一だったのです。そのためGNさんをはじめ溶鉱炉の技術者はロシア語を必死で勉強したそうです。
製鉄業の技術革新はもう一つありました。それは西ドイツから購入した連続鋳造装置でした。それを担当した技術者の苦労話は何度も聞いたことがあります。
こうして確立した日本の先端的な製鉄技術はその後韓国の浦項大型製鉄所へ伝授され、上海の宝山製鉄所へ流れて行ったのです。その結果韓国や中国の製鉄業が日本の競争相手になっているのです。
一方、ある大手商社に技術者として就職したOMさんはオーストラリアに埋蔵してあるウラン鉱石を掘り出して日本の原発の燃料として輸入する仕事に人生の大部分を捧げました。
まず大きな投資をして、オーストラリア政府を説得し、山奥に鉱山会社を設立し、ウラン鉱石を掘り出す技術と設備を作ったのです。それは大がかりな仕事でした。苦労の連続でしたが資源のい無い日本の繁栄のために身を粉にして働いたそうです。
もう一人のOTさんは石川島重工業でジェット戦闘機のエンジンの製作をしてきました。
航空自衛隊が完成した戦闘機をアメリカから購入するよりも日本で組み立てれば安く済むのが道理です。そこで戦闘機の設計図を買い、その製造を勉強すためにアメリカから技術者と腕の良い職人を招聘するのです。
戦闘機を日本で分解し、広い工場の床に数多くの部品を整然と並べます。それからまた組み上げます。それを何回も練習すると今度は設計図を見ただけで部品を組み上げることが出来ようになるのです。ところがここで一番重要なのはアメリカの職人から日本の職人が組み上げの途中の些細な注意を事細かに教えて貰うことです。
航空自衛隊の使用している新鋭戦闘機は実に職人技によって支えらているのです。このようなアメリカの技術者と職人の指導を一年位受けると、後は図面だけを買っても日本で新鋭戦闘機が作れるのです。
外国からある先端技術を買うということは人間による直接指導も一緒に買うのが普通です。
このようにして日本の製造技術が次第に進歩して行き、やがて世界を驚かす高度成長を達成したのです。このようなことは工業界すべての分野で実行されたのです。
日本の高度成長を支えた技術の歴史的一断面です。
さて余談ながら原発再開についても昨日のメンバーの意見はほぼ一致しています。皆は日本に資源が無いことで非常な苦労をしました。戦後の貧困も体験し、必死に努力してやっと日本の繁栄かちとったのです。
ですからこそ昨日の全員は原発が無くなり日本がまた貧困国に戻ることを本能的に恐れています。原発の事故防止の技術開発をし、使用済み核燃料の処理技術を前進させ、原発を速やかに再開するのが良いという意見です。
日本の高度成長に一生を捧げた彼らの意見を無視するのは人間として失礼な態度のような気がしています。
しかし一方、関係も無い福島県の人々が自分の家や故郷を捨てざるを得ない事実はどのように理解すべきでしょうか?それはあまりにも非道な話です。
このような非道は許されべきではありません。このことを考えると原発はやはり止めるのが良いと私は思います。
そんな感慨に打たれながら下のような午後のよわよわしい陽差しを眺めてから帰路につきました。湾岸道路で快適なドライブをしながら日本の将来を憂いていました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)